2025/08/08号 3面

啓蒙時代の礼節

啓蒙時代の礼節 フィリップ・レノ著 佐藤 淳二  外的自然からの防衛装置として国家は成立したが、やがて内なる自然すなわち人々の欲望の統治が課題となる。その「文明化の過程」(N・エリアス)を通じて近代国家は確立し、群衆は「規律権力」(M・フーコー)で、また宮廷社会は礼節という「規範」(R・シャルチエ)で包摂された。ついで「国民国家」が到来すると、周知のように、統治は生命の領域にまで及んだ。剥き出しの生の統治を目の当たりにした現代の読者は、カントと共にサドを読むことを学びもした。  しかし当然ながら、「啓蒙時代」の自己解釈の地平には、フランス革命もサドも現れない。フィリップ・レノ『啓蒙時代の礼節』は、政治思想(君主制か共和制か)と習俗(国民性と性愛)の思想史に、これまでと別な声を聞く試みである。その副題「法・習俗・マナー」は、モンテスキューによる。「法」は国家を、「習俗」は非国家領域をそれぞれ制御し、「マナー」は構成員の内面に踏み込む。絶対王政下のフランスでは、まず第一に、「法」と「習俗」の関係性が問われ、特にヴォルテールとモンテスキューにおいて主権国家の体制選択に関わって考察された(第3・4章)。絶対的君主をどのように制御すべきか。剝き出しの欲望を抑えて、適度な制限を課す「礼節」なら、王の権力意志の制御も可能だろう。文明化と啓蒙の進展で、王も貴族も互いに礼節を守るならば。  ところが啓蒙後期では、絶対的君主の欲望の制御よりも非政治的領域の台頭が思想的課題となった。ヒュームによる社会の「発見」、ルソーによる社会への「抵抗」、そして両者に決定的に揺さぶられたカントへと、『啓蒙時代の礼節』の思想史は展開していく(第4・5・6章)。その核心は、「非社会性と社会性の対立」のテーマだ。最後にフランス革命を受けて、啓蒙の直系の子孫ともいうべきスタール夫人のドイツ論、スタンダールとトクヴィルのアメリカ論が配置されて、19世紀の国民国家とは違う可能性が暗示される(第7・8章)。  では、非社会性と社会性の対立とは何か。そもそも礼節は、女性たちの尊敬ないし承認を獲得すべく、政治的権力者たちが、非政治的領域(サロンなど)で繰り広げる戦略的ゲームである。しかるにヒュームは、このゲームが社会全体に連想と想像力を通じて浸透することを発見したのである。一方ルソーも、独自の立場から社会的なものの支配を見てとったが、理論家としてはそれに抵抗して「非社会」をこそ擁護した。ついに、カントの人間学的考察に至って対立は「止揚」される。社会的なものの全面化(ヒューム)と、自然の孤独と非社会性(ルソー)の対立を、カントは綜合する。非社会性はそれだけでは存続し得ないし、社会性もそれだけでは浮薄なシミュレーションに過ぎない。非社会性(自然と真正性)による批判があって初めて、社会性(シミュレーション)も完成し得る。ここで悪は克服される。完璧な礼節社会では、「悪魔」であっても制度を守らざるを得ず、結果として「善き社会」が実現するからである。レノが依拠するのは、このカント的歴史弁証法すなわち近代を今もなお貫く理路に他ならない。  だが、カントの予感した通り、啓蒙された社会には「悪魔」が棲みつく。例えば、サド侯爵のジュリエット。しかし、世界の闇を回避するレノの書物は、ホッブズもサドも忘却し、フェミニズムからもニーチェからも距離をとる。とはいえ書物自体は、著者の意図とはまた別の響きを伝え得る。ニーチェに倣って、この別の声の響きに耳を開き、「正しい読み方の徳」(『悦ばしき知識』)を実践したいものだ。「礼節」による制限は、制限された側に憎悪を育み、次なる時代の途方もない暴力を準備したのではないかと、自問することが読者には求められているであろう。  翻訳だが、数行の脱落(二八六頁)などのミスが見受けられた。全体は丁寧な訳文だけに、意外である。(増田都希訳)(さとう・じゅんじ=京都大学名誉教授・フランス思想)  ★フィリップ・レノ=フランスの政治思想史家。著書に『司法官と哲学者』『ライシテ』『自由の三革命』、共編著に『政治哲学事典』など。一九五二年生。

書籍

書籍名 啓蒙時代の礼節
ISBN13 9784588011795
ISBN10 4588011790