ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 436
真に知的な映画作家・ヒッチコック
HK 今日では、以前のような「作家主義」が全く重要視されていません。アメリカ人が「カルチュラル・スタディーズ」と呼ぶものが主流になりつつあります。つまり、世間に対する影響を考えると、ゴダールよりもルイ・ド・フュネスの映画、ロメールよりもベッソンの映画の方が重要である。映画の研究者と話をすると、ゴダールやロメールの映画に一目置いている姿勢を見せますが、心の底から彼らの映画を好んでいるとは思えません。各人が専門としている映画作家には詳しいですが、それ以外の映画にあまり興味がなく見えます。例えば、ケン・ローチやフランソワ・オゾンの映画はよく話題になっています。しかし、アラン・ギロディやアルベルト・セラは話題になりません。
JD まず私の口から言えるのは、「アメリカ人研究者の言うことは信用するべきではない」。アメリカ人の映画研究者が何を行なっているのか正確には知りませんが、それらが映画に対してほとんど貢献しないアカデミックな世界の問題に終始していることは知っているから、そう言えるのです。私は今日の映画研究者の行なっていることに、全く興味を持っていません。アメリカ人研究者と会話をしたことも何度かありますが、彼らは重箱の隅をつつくようなことばかり話したがっている。決して面白い人たちではなかった。国立図書館の地下室にこもって資料を漁ることにのみ夢中になるような、几帳面な人ばかりです。彼らは映画についてはほとんど理解していません。
もしかするとフランシス・フォード・コッポラの人生や製作状況について、コッポラ本人以上に詳しいかもしれません。本人も忘れていることがたくさんあるはずだからです。そうした話は、コッポラに興味を持つ人の関心を集めるかもしれません。しかし、それと比較にならず興味深く重要なのは、コッポラ本人の語る言葉です。そして、それ以上に興味深いのは、コッポラの作った映画です。なぜなら映画作家は、――優れた映画作家は弁の立つ面白い人が多いですが――映画を通じて表現をしているからです。時には、彼らの語ること、彼らの意図したことと、映画を通じて表現されているものが矛盾していることもあります。そうした矛盾は面白いと思います。
HK 例えば、ジョン・フォードやヒッチコックの発言はあまり信用できません。
JD はい……。フォードは、くだらない質問に答えることはしていません。彼は一言「カット」と言うだけです。真に映画監督らしく、本当に高潔な態度です。フォードのそうした姿勢は尊敬に値します。なぜなら、多くのジャーナリストは実にくだらない質問しかしないからです。
その点において、ヒッチコックは非常に手際がよかった。彼は、ジャーナリストからの質問に、さらに馬鹿げた答えで返答することを楽しんでいました。ヒッチコックの記者会見は、一種のパフォーマンスだったのです。彼のそうした公的な態度は、ヒッチコック映画の一部も成していました。ヒッチコックは、本当は知的な人です。こちらから映画に関する核心的な質問をした際には、英国人風のユーモアを絶やすことはありませんでしたが、論理的思考に基づいた返答がありました。彼は、「映画とは何か」ということについて、映画的に考えていたのです。その考えは実際に作られた映画作品に反映されています。
HK 映画作家の言葉や映画自体に重きを置くのが「作家主義」なのかもしれませんね。しかし、大部分の研究者にとっては、映画自体や映画作家の語る言葉は史料の一部です。
JD それこそが私の語っていることです。映画研究者は、映画よりも論文の世界に属しているのです。
HK 今日の『カイエ』などの映画批評家は、研究の分野の出身の人が増えてきています。
JD その通り。実は、現在の映画批評の世界からは、真の映画批評家が消えてきています。『カイエ』だけでなく、他の新聞や批評誌に目を通していても、映画批評が行われている記事はほとんどありません。今日の批評家たちには、言葉があります。けれども趣味嗜好が欠けているのです。 〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
