平和と愚かさ
東 浩紀著
小川 歩人
本書は「平和」とは何かを根本的に問う哲学書である。ユーゴスラヴィア紛争、アウシュヴィッツ、南京虐殺、ベトナム戦争、チェルノブイリ、東日本大震災、ウクライナ戦争、ルワンダ内戦──本書が扱うのは二〇世紀以来の戦争と災厄の記憶であり、その蓄積のなかで、今日、「平和」という概念が「思考不可能なもの」になってしまったという事態である。前世紀の思想は多かれ少なかれ、ナチスドイツによるユダヤ人虐殺を特権的な範例としたが、本書は紀行的なスタイルを採用し、他の多くの固有名とともに範例を複数化しつつ思考を進めていく。具体的な歴史記述や同時代的状況が織り込まれ、読者は論理と事実を照らし合わせながら、著者の「観光客の哲学」の実践へと誘われる。
初期著作以来、「思考不可能なもの」は著者の中心的主題であった。不可能なものをめぐる哲学的思索はしばしば神秘的な仕方でその不可能性を言祝ぎ、秘教化してしまう。本書もまた、現代哲学/批評の秘教化を脱し、別の仕方へと開こうとする試みとして、著者の理論的作業の流れに位置づけられるだろう。著者は「平和」を「思考しないこと」と定義する。「不可能=できない」から「しない」への書き換えは、思考のリミットを再設定し、根本的な「平和」を読者に想像させるに十分なスペースをつくっている。
評者には本書で描かれる平和の構想はある種「ルソー的」にみえる。まず平和は戦争しないこととして定義されるが、それだけではなく、本書で平和は「反戦」とも区別される。反戦はなおひとつの「戦い」であり、概念としての戦争の内部にとどまる。「認知戦」といった語も広がる現在、平時と戦時はますます曖昧になってきている。そうした状況に対し、本書が提示する「思考しないこと」は徹底した喧騒からの退きとして構想される。
この退きはどこか誇張的であり、自然状態への志向を思わせる。自然状態とは、人びとが各々に独立しながらばらばらで生きている状態である。社会や文明こそが不平等や不和、奴隷制を発生させる悪であり、ルソーは寧ろそれ以前に想定される幸福な自然状態を志向していた。もちろん、ルソーも純粋な自然状態への回帰を熱望する「素朴なルソー主義者」ではない。前著『訂正可能性の哲学』で『新エロイーズ』を主題にして論じられていたように、ルソーは「人為によって自然を守り、噓によって真実を守り、創作によって純粋な愛を守る矛盾」を抱えた哲学者であった。本書でも平和はたんに考えないだけではなく、むしろ「考えないことを考える」という逆説を通り抜けることによってのみ到達可能な状態だといわれる。
その上で、本書の或る「遡り」の志向は根本的なものである。本書は、戦争の記憶を追いながら、「「真実が事実とは限らないし、事実が真実とは限らない」関係を言語化する装置」、「殴ったものか殴られたものかに振り分けられているという、その現実=運命そのものを脱臼する装置」としての「文学の力」、「夢と無意識の論理」の分析をおこない、それらが平和の思考に必要だとする。ルソーにおいて理論的に要請される自然状態はつねにすでに失われてしまっている仮構である。かつてあった「はずの」争いのない、ただばらばらに生きていた記憶。そんなことがあったかもしれない記憶の痕跡をいかにして担えるかが問われる。本書における「殴るものと殴られるものが分かれていなかった時間に遡る」という平和のための要請は、こうした問題系に属している。
ここで印象的なのが「寂しい」という語である。「平和と共生の記憶はつねに訂正可能性に晒されている。それは寂しいことだが、それこそが平和を生きることの代償なのだ」。第一部の主要な登場人物である、サラエヴォ出身の映画監督エミール・クリストリッツァは本書において、恐らくもっとも「ルソー的な」人物である。彼は代表作『アンダーグラウンド』において、ユーゴスラヴィアが共生できていたはずの時間をキッチュな屈折を通して夢見る。その「夢」は一方で虐殺、民族浄化がおこった現実を覆い隠してしまう。だが同時に、クリストリッツァはありえた共生の平和を想像しつつ、その記憶を「葬送」する人でもある。
訂正されることは寂しい。平和の思考不可能性は「じつは平和ではなかった」という訂正によって生み出されてしまう。「こうでなくてもよかった」、「あのままでなくてもよかった」という事後的な訂正は「あのままでよかったのに」という懐古的願望に対して冷淡である。著者は不断に仮定法を挿入する訂正可能性を、しばしば不可避の「残酷さ」として描くが、本書では同時に事後的な訂正に対する情動的な抵抗、喪の作業の側面もまた強調されている。
著者が各所で述べるように本書は「語り口の問題」など、加藤典洋『敗戦後論』への応答としての性格をもつが、以上の観点からの共鳴も指摘できるかもしれない。加藤は、戦後的視点から戦前を断罪する坂口安吾の態度に対して、太宰治の弱い倫理、すなわち、あくまで以前的な語りを引き受け直す態度を評価する。加害者の郷愁は強くも正しくもなく、しばしば弱く、事後=戦後からの修正は必ずしも寂しさに応答してはくれない。それゆえに訂正以前的な、かつての愚かな「平和」の喪に服すことは、そのような過去への遡りを必要とするのであろう。そうした遡りに本書の根本的な平和の特徴が現れている。
ところで、このような遡行的な平和の構想を踏まえると、最終部の「リゾート」という隠喩は別の緊張を孕むことになる。
本書最終部の「哲学とは何か、客的―裏方的二重体について」(2023)は「考えること」と「考えないこと」を別の仕方で提示する小論である。そこでは、リゾートのプールでぷかぷか浮かんで何も考えていないことが平和の隠喩として採用され、何も考えないでいられるリゾートの客―消費者と、リゾートを維持し、何も考えていないことを支える裏方―生産者の相補的関係が現代的主体の二重構造として描かれる。
リゾートの隠喩には不穏な感じがある。リゾートに来る客は考えないために来るとして、彼らが払いのける仮定はたんに現実である。熱帯雨林を切り開いた作物を食べ、人権問題を抱える国の衣料を利用し、背景に深刻な貧困と差別があるリゾートを多くの人々は利用している。著者は最終部の夢のようなリゾートが幻想であることにも自覚的である。そもそも本書第一部で提示される「リゾート」からして無防備にぷかぷか浮かぶことができる場所ではなかった。クリストリッツァがテーマパークを建設したヴィシェグラードのリゾート、ヴィリナ・グラスは現在なにもなかったかのように営業しているが、内戦時には軍によって占領され、性的接待のための「収容所」として機能したと記されている(本書第一部)。最終部の「リゾート」の隠喩は改めて大量死の場所である「収容所」と大量生の場所である「団地」をめぐる議論(本書第二部)のなかに巻き込まれている。思考しない平和の裏面は愚かさであり、リゾートの地下には何かが埋まっている。
だが、幻想は幻想であるという露悪的な同語反復に尽きるわけではないのだろう。かつて著者は震災以後、夢を夢として素直に語ることがもうできなくなったと書いていた。本書において「夢」は「現実を覆い隠す」ものにすぎない「幻想」だと繰り返される。しかし、「幻想」は「夢」でもあったのだ。誰しもが、文字通り誰しもがぷかぷかとリゾートに浮かんでいられたらよかったのに。それはたんに訂正されるべき隠喩でも、実現不可能な理想でもなく、分離以前的な「平和」を願う人間の情念を問うている。かつてデリダは、ローティらとの対話のなかで思考不可能な友愛の経験をある種の「夢」だと述べていた。「そこには悪はない。犯罪も死もない。みながみなの幸せを祝福している」、本当にそうだったらよかったのに。本書は、収容所跡のリゾートに建てられた記念碑として読まれるのだろう。
あとがきでは次の著作が日本論だと予告されている。各所で日本人としての視点が挿入されており、本書もすでにある種の日本人論ではあった。人びとが友と敵に分たれる以前にあったはずの「夢」を私たちはどのように描きうるのだろうか。(おがわ・あゆと=奈良県立大学講師・哲学)
★あずま・ひろき=批評家・作家。ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』『動物化するポストモダン』『クォンタム・ファミリーズ』『観光客の哲学』『訂正可能性の哲学』など。一九七一年生。
書籍
| 書籍名 | 平和と愚かさ |
| ISBN13 | 9784907188672 |
| ISBN10 | 4907188676 |
