自滅帳
春日 武彦著
秋草 俊一郎
なんとも不思議な本である。自滅していく人々についての物語と、それをめぐる著者の随想から成る章が十三、ならんでいる。十三の章にひとつずつ短編小説がとりあげられ、内容が引用とともに紹介される。十三通りの自滅――著者は「泥人形の水遊び」という慣用句を引いてそれを著している――が示されるという趣向だ。
しかし取りあげられる短編はどれもマイナーなものだ。松本清張や吉行淳之介のような有名な作家の作品もあるのだが、チョイスされるのは全集にしか収録されていなかったり、その作家に相当詳しい人でも記憶していない作品ばかりで、新刊書店で文庫などの形で気軽に手に取れるようなものは少ない。しかしこのマイナーさは、本書の構成上必要不可欠なものだ。その理由として、付随して示される著者によるエピソードも、他愛もない、それだけ切り出してしまえば取るに足らないものにすぎないからだ。他人に話してしまえば、すぐに色あせて、陳腐化してしまうような記憶の断片である。
たとえば、第六章の「死に際して思い返す景色」では、ウィリアム・トレヴァーの「ピアノ調律師の妻たち」(なお、この短編は本書の中ではそれほど自滅的な内容ではない)が取りあげられる。盲目のピアノ調律師が死に際に思い浮かべる光景はなにか、というある種哲学的な問いを(なかば強引に)たて、自分の場合ならとして著者があげるのは、自身が小学生の頃、地元の商店街の店先で見た見事な色合いのスコップや、遊びに行った友人の家にあった深緑色の鏡筒の天体望遠鏡、母方の親戚からもらった舶来物のカラフルな運動靴だったりする。著者が「死に際して思い返す」ものとはこういった(他人と価値を共有するのは難しいが)自分の記憶の奥に深く刻まれてしまって離れられないものなのだ。こうした記憶と並べるのは、誰もが知る傑作などではむしろあってはならない。あまり広く知られてはいないが、滋味豊かな佳作がふさわしい。
本書を読むと、そうした知られざる佳作を発掘する著者の慧眼にうならされる。姉妹編と思しき前著『自殺帳』では、小説についてだけでなく、精神科医としての立場から自殺の類型についての分析や自分が医者として診た患者について頁が多く割かれていた。それに対して今回の本では職業人としての顔は後景にどちらかと言えば退いており、著者の小説読みとしての顔が前面に出たものと言えそうだ。しかし、その視線は醒めていて、諧謔的であって、医師という職業と不可分のようだ。
第八章「異物」で紹介されるのは、H・E・ベイツ(この人も著者の言うとおり日本の読書界では忘れられた存在だろう)の「愛ならぬ愛」という短編だ。事務員のリリアンは、ひょんなことから出会った片足が不自由なトラヴァーズの家に招かれ、通ううちに、彼に惹かれていく。しかしトラヴァーズから求婚されたリリアンは戸惑ってしまう。返事をすると約束した土曜日、意を決してトラヴァーズの家に出向いたリリアンが無造作に置かれた義足を不快に思う場面を引用して、著者は「この描写は見事としか言いようがない。こうした底意地の悪くしかも巧みな文章と出会えるのは一種の快楽とでも言うべき体験だ」と感想を漏らす。巧妙な小説とは、人間の隠しておきたい心性を容赦なく暴き立て共感を誘うものだ。だがその共感は、公的に共有されるような類のものではなく、小説好きのあいだで密かに楽しまれるべきものでもある。
そしてこの「底意地の悪くしかも巧み」というのは、本書の著者にこそあてはまるのではないか。第三章では、かつて自分が勤務していた地方の精神科病院でのエピソードが紹介される。虚栄心ばかり強くて、ありもしない役職を名刺に刷ってしまった医局の同僚のG医師の滑稽ないじましさ、そしてそれを冷笑する経済学部出身の理事長のいやったらしさが思い起こされる。しかしその話に、G医師が消息不明になったのと同じころ、理事長がスキルス胃癌になって「苦しみ抜いて亡くなった」という「後日談」を付け加えるあたり、著者の「底意地の悪くしかも巧み」な筆致には感心せざるをえない。
当然ながら世の中にはハッピーエンドで終わる物語ばかりではなく、その逆の方がずっと多い。むしろ私たちは日々自滅にむかって邁進しているとどこかでわかっていつつも、それに見て見ぬふりを決め込んでいるわけだが、そういった人間のあり方を振りかえる意味でも卓抜な随筆であり、評論である。(あきくさ・しゅんいちろう= 日本大学准教授・比較文学者・翻訳家)
★かすが・たけひこ=精神科医・成仁病院名誉院長。『病んだ家族、散乱した室内』『恐怖の正体トラウマ・恐怖症からホラーまで』『無意味なものと不気味なもの』『屋根裏に誰かいるんですよ。 都市伝説の精神病理』『自殺帳』など。一九五一年生。
書籍
| 書籍名 | 自滅帳 |
| ISBN13 | 9784794980151 |
| ISBN10 | 4794980159 |
