- ジャンル:文学研究・評論
- 著者/編者: テリー・イーグルトン
- 評者: 山田広昭
悲劇とは何か
テリー・イーグルトン著
山田 広昭
繰り返される、「何々は死んだ」、「何々は終わった」という言説。しかし、こうした言説が意味を持つのは、何々としての何々は終わったとして言明されるときだけであり、「何々としての」が不明瞭なままにされているかぎり、その命題はじつは何も言っていない。本書は五章からなるが、その最初の章の章題は「悲劇は死んだか?」である。イーグルトンは必要な限定を与えることを忘れてはいない。彼が出発点にとるのは、悲劇という言葉の日常的な意味合いと特定の芸術ジャンルとしての「悲劇」とを区別することである。後者の意味での悲劇は、あるきわめて特異な事象であって、人間の条件をめぐる時代と地域を超越した考察としてではなく、特定の文明が、それも歴史上ほんのつかのまの瞬間に、みずからを苦しめる矛盾や葛藤と取り組むときの「形式」としてはじまった。言うまでもなく、「ギリシア悲劇」である。
悲劇について考えようとすれば、誰であれギリシア悲劇へと遡らざるをえないのだから、この限定は一見月並みなものに思える。たとえば、ニーチェが普仏戦争の直後に『悲劇の誕生』を世に問うたとき、そのタイトルをくどくどしく「ギリシア悲劇の誕生」とする必要性など毫も感じなかったことはあきらかである。しかし、本書を読み進めてみれば、イーグルトンの意図が、この等式(悲劇=ギリシア悲劇)を解除し、彼がこの語の日常的な意味合いと呼ぶもの、すなわち人間がおかれている、時代と地域を越えた、普遍的な条件にかかわるもの、言い換えれば「悲劇的なるもの」と接合させることにあることが見えてくる。
だが、そのことに触れる前に、ギリシア悲劇を「問題化」すること自体が、つまりそこに解かなければならない喫緊の課題を見出すこと自体が抱えていた時代的地理的条件に言及しておく必要があるだろう。一言でいえば、それはロマン派以降の近代ドイツである。ニーチェがその頂点をなすことは言うまでもないが、過去の代表的悲劇論の多くがドイツ語で書かれてきたことは、ヴァルター・ベンヤミン(『ドイツ悲劇の根源』)、カール・シュミット(『ハムレットあるいはヘカベ』)の名前をあげるだけでも十分な例証となるだろう。ここに人間の中核的コンプレックスにオイディプスという名を与えたフロイトの名を加えておくことも可能だろう。あるいはヘルダーリンを通じてギリシア悲劇への関心を深めたハイデガーの名を。
しかし、本書の関心は悲劇「論」の歴史的地政学的性格の解明にはない。第二章から第四章にかけて(章題を並べるなら「近親相姦と算法」「悲劇的過渡期」「有益な噓」)の論の運びは、これまでの多くの悲劇論や、シェイクスピアからイプセン、アーサー・ミラーやテネシー・ウィリアムズにいたるギリシア悲劇以外の多くの悲劇的作品の簡潔な紹介ないしはコラージュという側面があるとはいえ、全体としての切り口はイーグルトン自身の理論的バックグラウンドを正確に反映している。フロイト、ラカンを中心とする精神分析理論と、ルカーチやアルチュセールをふくむマルクス主義である。悲劇を一方で過渡期、すなわち古い体制、秩序の崩壊から新たな秩序の創造への闘争と結びつける視点、他方で支配権力に奉仕する「噓」=イデオロギーと重ね合わせる視点などは、これまでのイーグルトンの著作に通じている読者には驚きを与えるものではないだろう。「あらゆる芸術には政治的次元があるが、悲劇は実際のところ政治的制度として産声を上げた」、それゆえ個人の心理的次元に収斂させない政治的アプローチは不可欠なのだ。
しかし、本書の独自性は、イーグルトンがもっとも多くの紙幅を割いている最終章「慰めなきもの」にあるように思える。彼はそこで、近代の多くの悲劇論の狙いが、美の問題(美学)を哲学的思弁の中心に据えることで、芸術と、哲学を含む諸科学との位階、序列を、芸術を頂点におく形で転倒することにあったことを強調しているが、同時に、それらがおしなべて悲劇のなかに、相互に矛盾し、根源的に対立するものに「和解」をもたらす力を見ていることに批判的な眼差しを向けている。「多くの思想家たちは芸術全般を、またとりわけ悲劇を、至高の形態の和解を実現するものとしていまもなお褒めそやしている」。しかし、真の悲劇とは、あらゆる和解、調停を拒むもの、まさに「慰めなきもの」なのではないのか。
ところで、イーグルトンが挙げる例はすべて広義の西欧のものだが、日本の読者は、そこに日本における悲劇の系譜を重ね合わせてみたくなるのではないだろうか。ほんの一例だが、説経節「俊徳丸」、観世元雅「弱法師」から、折口信夫や寺山修司の「身毒丸」、さらには中上健次の紀州物へと引かれていく線を本書の議論を通じて読み解こうとすればどんな景色が見えてくるかは問うてみるに値するだろう。(大橋洋一訳)(やまだ・ひろあき=東京大学名誉教授・フランス文学)
★テリー・イーグルトン=イギリスの文学理論家。ランカスター大学客員教授。著書に『文学とは何か』『文化と神の死』など。一九四三年生。
書籍
| 書籍名 | 悲劇とは何か |
| ISBN13 | 9784582703733 |
| ISBN10 | 4582703739 |
