砂川闘争とは何か
高原 太一著
大野 光明
本書は一九五〇年代半ばの東京都砂川町における米軍立川基地の滑走路延長計画に対する反対運動、いわゆる「砂川闘争」に参加した人びとの歴史を描いた作品である。砂川闘争を多面的な視点から論じなおし、闘争のもつ豊かな広がりと可能性を提示する素晴らしい内容だ。本書はこれまでの砂川闘争の研究、ひいては民衆史研究が、明確な闘争主体を設定し――言葉をかえれば、闘争の先端から末端へと人びとを価値づけ、序列化し――、権力との直接的な対立や衝突を中心に描いてきたと批判する。著者はそのような先行研究の枠組みを「衝突中心史観」と呼び、その乗りこえを目指す。
では、それはどのような方法によってなされたか。本書は、闘争の多声性を重視し、さまざまな声や経験を記した記録と表現を拾い上げる。そして、その記録を「状況内在的推論」(二〇頁)から解釈しなおす。人びとを「反対派」と「条件派」、「民衆」と「権力」といった外在的なラベルを用いて論じるのではない。人びとが砂川闘争という出来事から何を受け取り、何をなし、どのような変容を生きたのかが、それぞれの置かれた状況に内在したかたちで分析されている。この方法論から浮かび上がるのは「多面体の歴史像」(終章)としての砂川闘争だ。
その具体的な内容をみてみよう。各章が対象化するのは、計画の当事者となった地元農家たちとその「絶対反対」の論理(第1章)、砂川闘争の支援者として介入した知識人グループ「基地問題文化人懇談会」の高橋磌一の経験(第2章)、拡張予定地と隣接する砂川中学校の教師たちによる「基地と教育」研究サークルの実践(第3章)、砂川中学校の生徒たちの問題意識や行為(第4章)、闘争を記録し、地元農家と密接な交流関係をつくった写真家・新海覚雄と向井潔の作品(第5章)、闘争に医療班として参加した国立立川病院などの医師たちの動きや国立療養所多磨全生園で生活するハンセン病療養者たちの短歌作品(第6章)、そして著者がこの闘争を記録した「もうひとりの歴史家」と呼ぶ警察による『警備実施状況報告書』(補章)である。
これまでの砂川闘争の記録や研究が焦点をあててきた予定地の地権者や農家の男性運動家(だけ)でなく、女性、中学生、地元の教師、ハンセン病者、医療従事者、警察官などがとりあげられている。砂川闘争の歴史からは「周縁化ないしは抑圧/忘却されてきた諸主体の実践や関係性」(三七九頁)に光があてられていく。そのために文字資料だけでなく、短歌や写真まで幅広く扱われているのも本書の特徴である。
このような方法論によって浮かび上がるのは、闘争における行動以前の領域の重要性だ。闘争現場で具体的な行動を起こす手前で、あるいは行動に移せないなかで、人びとが「くやしい」「ひどい」という感情を抱き――すなわち「心的態度」をもち――、また、「願う」「祈る」「心に刻む」といった「内的行為」を生きていたことが丁寧に示される(第4章)。権力と衝突する、座り込む、デモをするといった可視的な行動だけが運動なのではない。日常において何かを願い、たじろぎ、他者の叫び声を聞き、揺さぶられること。そうした見えにくい人びとの反応や態度、行為の断片も闘争を織りなす重要な力であることが示されるのだ。また、権力と住民が激しくぶつかりあう時間だけでなく、「待機の時間」(第5章)や日常も闘争を構成している。こうして闘争の主体、行為、時間を広くとらえる本書は、運動がいかなる裾野や共鳴とともにその生命を宿すのかを実に豊かに教えてくれる。今後の民衆史研究や社会運動史研究は必ず参照することになる本だろう。
本書補章では、伊達判決へと結実することとなった一九五七年の米軍基地内への学生活動家らの侵入という出来事の内部が分析されている。筆者が感銘を受けたのは、警察の抱いていた恐怖についての考察だ。「したたかに、しかし、ひるむことなく、まさに水が流れるようにして気がついたときには『境界』を侵犯」する人びとへの警察の恐怖だ。「裂け目から漏れ出した水があっという間にひろがるようにして自由な空間とそれを生きる人びと」が生み出されていたと考察されている(四四四頁)。この考察は砂川闘争全体の解釈においても示唆的だ。「多面体」としての砂川闘争は、地下に、地表に流れゆく無数の小さな水の流れによって構成されており、それらはときに集まり間欠泉のように吹き上がる。と同時に、ふたたび地中へと散り、リゾームのように流れていく。闘争の歴史とはそのような人びとの流れの合流や離散の連続なのだ。
本書のサブタイトルに「連帯の民衆史」とある。連帯とはその場に居合わせた人びとがスクラムを組み一丸となって闘うことだけではない。連帯とは、「地理的あるいは時間的、さらには思想や身体的に遠く離れ、隔たれていたとしても、一緒にあることを表現する言葉だ」(三六八頁)。つまり、さまざまな歴史を生きてきた人びとが砂川の予定地で、路地裏で、中学校の教室で、あるいは同人誌の歌のなかで、何らかの共鳴が生きられ表現されていくような、広がりある行為として連帯はあるのだ。
このような連帯論は先述した水としての運動、水脈としての民衆史/運動史という点とも密接につながるのではないか。砂川闘争から七〇年経ってもなお、私たちはその水になりうるのだ。本書を読むことを通して、あるいは、現在進行形のパレスチナでのジェノサイドをめぐって、辺野古での新基地建設の強行をめぐって、私たちの何かが疼き反応するとき、砂川闘争に/から連なる水になっていく。その水流に飲み込まれていく経験といってもよいだろう。連帯はもうそこに始まっているのだ。先日の参院選挙の惨憺たる結果のあとで、私はこの歴史イメージを手放したくないと思う。
本書の課題と思う点についても述べておきたい。一つは警察の暴力についての分析だ。本書は、これまでの民衆史研究が警察官の涙(九九頁)や自死を決断した警官の遺書(三七六頁)を正面から見つめ、考えてきたかと問う。この問いは重い。だが、本書には警察による人びとへの文字どおりの物理的暴力と弾圧の残虐さ、それに対して憎しみの感情を燃やす人びとの経験も書かれている。警察官個人の経験を丁寧に拾い、闘争のなかに含みこもうとすることと、警察という暴力装置によって傷つき憎しみを抱く住民の経験は簡単には並列できない。両者を結びつけるための枠組みが必要だろう。たとえば、運動現場においては、目の前で対立している人びとのなかにも「未来の仲間」がいると考えようとの呼びかけがなされてきた。軍隊研究では人びとが兵士になることの被傷性や被害者性が論じられてきた。あるいは、ブラック・ライヴズ・マター運動は警察の残忍性を批判し、警察の廃絶という思想を練り上げ実践してきた。複数の暴力の経験をつなぎ、暴力装置の解体へと結びつけていく枠組みが必要ではないだろうか。
また、本書は民衆史研究の乗りこえという問題関心ゆえに、過去・現在の運動を多面的に論じてきた社会運動論、なかでも社会学的な議論はあまり参照されていない。運動と日常とのつながり、運動における感情、行為未満の営みなどに関しては研究蓄積がある。社会運動研究の分野横断性をふまえれば、本書の切り開いてくれた豊かな知見を、読者それぞれがさまざまな知の水脈へとつなげることができるだろう。多くの読者に対して、本書への連帯を呼びかけたい。(おおの・みつあき=滋賀県立大学教授・歴史社会学・社会運動史)
★たかはら・たいち=成城大学グローカル研究センターポストドクター研究員・戦後民衆運動史。中学二年時の社会科見学で砂川をめぐる。国際基督教大学三年時のフィールドワークで砂川と「再会」。二〇二二年には東京外国語大学大学院にて「米軍立川基地拡張反対運動の再検討 「流血の砂川」から多面体の歴史像へ」で博士号(学術)を取得。論文に「砂川闘争と北多摩 座りこむ人びとの出会いと連帯、二つの国立療養所との関係を中心に」など。一九八九年生。
書籍
| 書籍名 | 砂川闘争とは何か |
| ISBN13 | 9784588316241 |
| ISBN10 | 4588316249 |
