「世界」文学論序説
坂口 周著
栗原 悠
ある一つの理論や概念がその有用性を自己証明するためには、局所的な何かの現象を説明するだけで満足してはいられない。それは必然的に普遍性を志向する。たとえば資本主義は、原初段階においては地理的に近接した各地域同士の交易のなかにとどまっていたが、交通網の拡充に従い(むしろそれを強く促進し)、みるみるうちにその領域を拡張していった。そして一九世紀には帝国主義とも相まって日本も含む地球全体をほとんどくまなく覆う、字義通りにグローバルな理論へと変貌を遂げた。今日日それは自らが発展の足掛かりとしてきた国家という枠組さえも食い破りながら、さらなる膨張を目指しているかに見える。
他方、この資本主義の広がりは図らずもその土地土地の文化的な接触の機会を提供してもきた。「世界文学」は、現在の日本における文学研究、評論を席巻するヘゲモニックな概念だが、そのことばの源流が一九世紀ヨーロッパ(ゲーテの発言とされる)に辿られるのは単なる偶然の一致ではない。そして概念が普遍性を志向するのは、「世界文学」の場合も事情は同じと言える。それはさまざまな土地の持つヴァナキュラーな文学の諸様態を無前提に肯うものではなく、『「世界」文学論序説』のことばを借りれば、「その差異を包含し語りうる普遍的な共通空間を敷設し、拡大することに真の目的がある」。そうした固有の存立要件を超えた力を持つものだけが「世界文学」になりうるのだとすれば、そこからふるい落とされてしまった文学もまた存在することは想像に容易い。
前置きが長くなったが、マイナーなものを覆い尽くし、まさしく世界を一つの括弧のなかに収めてしまう、かような「世界文学」の強靭な論理に対し、敢えてそのフレームの位置をズラすことでふるい落とされた文学の持つ意味を辿り直してみるのが本書の企みであり、具体的にそれは近現代の日本の文学における主観的な「世界」を描く諸テクスト=「世界」文学の系譜を構想しつつ、その思想的な連繫を言語化していく試みと言えるだろう。この点において本書は、自然主義やロマン主義といった当事者たちが拘泥していた従来的なイズムの対立からほとんど融通無碍に叙されているものの、すぐれて文学史的な性格を有してもいる。
ただ、見方によってはせせこましいとも思える本邦の「世界」文学の履歴は、すぐさま連想されるようにかつて戦後まもない時期に中村光夫らヨーロッパ文学に通じた批評家らが近代の誤った歩みとして批判的に取り上げたそれと認識的には重なる部分が少なくない(実際、著者の坂口もハイデガーに倣ったことばではあるが、「貧乏的」と形容している)。しかし本書の目論見は、中村らのように日本近代文学(小説)の「世界文学」的価値を論難することにはなく、むしろそうした試みが脈々と引き継がれていった結果として現れた村上春樹やその後進たちが紛れもない「世界文学」としての評価に逢着するその論理を見出すことにある。その際に本書がユニークなのは、日本の文学が大きな転換期を迎えつつあった一九世紀末から二〇世紀初頭、ほぼ時を同じくして西洋の哲学周辺に起きていた「世界」認識の変容を議論のなかに組み込んでいる点だ。すなわち、フッサールが確立した現象学や生物学においてユクスキュルが提唱した「環世界」(Umwelt)の概念である。無論、坂口自身が指摘するように、とりわけフッサールに関しては同時代日本の文学者たちからの言及は非常に乏しい(この点、彼が戦前に日本の雑誌『改造』のためにわざわざ寄稿した論文がほとんど黙殺されてしまったことも併せて想起されよう)。本書の議論も「世界」認識自体の変革の起点としてあるカントや、ハイデガー、また戦後におけるサルトルなど日本の文学状況への直接的な影響力の大きかった存在に比して、フッサール、ユクスキュルの二人への言及がさほど多いわけではない。しかし全体性ではなく、主観への現れとして位置付けられる現象学的「世界」と正岡子規の「写生」論や自然主義的リアリズム、あるいは心境小説(および私小説)の描く「世界」の試みがパラレルな形で論理的接近を果たしていたという視点は、「世界文学」のフレームを動かすことなしには辿り着き得なかったに違いない。
そして主に戦前期の文学を専門とする稿者の立場から最も惹かれたのは、「感情移入」(Einfühlung)の問題を扱ったところであった。ドイツ美学に学んだ島村抱月らによって提起された「感情移入」の概念は現在の研究においてもなお論ずるに厄介な問題であり続けているが、「演技」という視角の導入によって、それが「世界」認識の問題へと連接することを鮮やかに示したこの第四章は本書中の白眉と言えるだろう。
さて、かように示唆に富む本書であるが、冒頭に指摘した通り理論的枠組の提示によって見過ごされてしまう問題が生じることは避け難い。特に指摘しておきたいのは、縦横無尽な論の運びのなかで文章の形態的問題の重要性がやや見えづらくなっている点だ。しばしば子規への言及が繰り返されているように、実のところ本書の議論には短詩型文学(なかんずく俳句)の問題が至るところに顔を出している。たとえば「感情移入」も「心境小説」も同時代から俳句との関係が執拗に強調されてきた論点であり、そうした問題が「世界」認識という枠組において諸文学ジャンルとあまり差がない形で論じられてしまうことで、むしろその固有の問題が後景に退いてしまうのではないかという憾みはあるだろう。
とは言え、本書の議論は対象とする「貧乏的」な「世界」の視野の局限とは裏腹に、文学をめぐる思考の枠組を大きく押し広げるものであることは疑いない。(くりはら・ゆたか=総合研究大学院大学/国文学研究資料館准教授・日本近代文学)
★さかぐち・しゅう=福岡女子大学准教授・日本近現代文学・文化研究。著書に『意志薄弱の文学史 日本現代文学の起源』など。「運動する写生映画の時代の子規」で群像新人文学賞評論部門優秀作受賞。一九七七年生。
書籍
書籍名 | 「世界」文学論序説 |
ISBN13 | 9784879844606 |
ISBN10 | 4879844608 |