ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 407
サミュエル・フラーとニコラス・レイ
JD 侯孝賢は、小津の形式面に影響を受けたのではなく、小津映画の生の見方に強い影響を受けたはずです。それはヴェンダースが見る世界のあり方とは大きく異なります。ヴェンダースは、世界を外部からしか見ることができていません。彼は、ファスビンダーのようにして戦後ドイツを根本から糾弾することはできませんでした。ヴェンダースの見る世界は、いつも外部からの知的な見方になってしまっているのです。私がヴェンダースを見限ったのは『夢の果てまでも』(一九九一)でした。それまでのヴェンダースは、非常にシネフィル的でしたが、それなりに面白い映画を作っていました。彼は、映画についての映画をずっと作っていたのです。しかし結局のところ、そうした作品は、ニコラス・レイやサミュエル・フラーを利用していただけなのです。非常にシネフィル的な映画でした。
HK サミュエル・フラーは、ゴダールやシャブロルにも利用されていたのではないですか。
JD ヌーヴェルヴァーグはフラーを利用はしていません。反対に、私たちがフラーを助けていた一面があります。フラーは六〇年代に入ると、映画を撮ることができなくなっていました。ヌーヴェルヴァーグの到来以来、アメリカの制作システムが変わってしまい、多くの映画監督が失業状態になっていたのです。フラーもその一人でした。彼の映画はいわゆるB級映画に属するものでした。それに加えて、決して評判の良いものではなかった。人種差別、精神病、権力、軍の問題について、批判的に切り込んでいく作品は、誰しもが喜ぶものではなかったのです。
人々は、デヴィッド・リーンの映画の方を好んでいました。フラーの映画は、美しく構成され撮影された風景、小綺麗にまとめられた物語、心地の良い口笛によって成り立っていたのではなかったのです。私たち『カイエ』は、フラーの仕事をとても高く評価していました。
アメリカで映画を撮ることができなくなったフラーは、ニコラス・レイと同様、頻繁にフランスに来ては、自身の映画の紹介などをしていました。彼らがフランスにしばしば滞在するようになったのは、映画が撮れなくなった一九六五年くらいからでした。当時、私は批評家としてとても精力的に活動しており、彼らの映画の上映に関する紹介や上映後の議論に参加していました。シネマテークでフラーの特集上映が行われたのも、その頃です。『カイエ』がインタビューを行なっていますし、ゴダールは『気狂いピエロ』にカメオとして出演させました。フラーは、リュック・ムレの映画にも端役として出演しています。パリにいて、私たちの批評に敬意を払ってくれました。尚且つヌーヴェルヴァーグの映画を気に入ってくれていたので、気軽にお願いを引き受けてくれたのです。
それと同時に、私たちは彼が新しい作品を作れるようにと、色々と手助けを試みましたが、上手くはいきませんでした。理由は、非常に単純です。彼がアメリカの映画監督だったからです。あの頃、アメリカの映画監督がフランスで映画を作ることは考えられませんでした。フランスやヨーロッパで撮ることが、アメリカの映画監督にとっては島流しを受け入れるようなものだったのです。その後のアメリカでの映画作りの可能性を自ら断つ行為でもあった。彼らには、ヌーヴェルヴァーグのように映画を作ることが、心理的にできなかったのです。
ニコラス・レイもフラーと同様、フランスで映画を作ることに前向きではありませんでした。しかし、二人とも結局は七〇年代に入ると小規模な映画を作っています。ニコラス・レイは、ニューヨークの映画学校で、教え子たちを使って作品を作りました。フラーは、出来の悪いB級のサメ映画をプロデューサーに作らされ、アメリカ映画に失望し、西ドイツのテレビ局の探偵ドラマの一エピソードを作ります。その作品は、それほど悪くないものでした。その後、彼は十年近く映画が作れませんでした。彼がヴェンダースの映画に出演したのはその頃です。シネフィルたちによって、伝説の映画作家として崇められていたのです。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)