研修生
多和田 葉子著
西崎 憲
本作の年代設定は一九八〇年代で、内容は若い女性である「わたし」が大学の卒業後に日本を出て、ドイツの書籍取次会社で研修生として働くというものである。半年あまりの期間のことが経時的に細密に語られる。時折現在の視点からの記述が挟まれ、エッセイあるいはノンフィクション的なその記述は本作のジャンル分けをすこし難しくさせる。さらに性別を表す代名詞は例外なく「女性」「男性」で、そのあたりも小説としてはすこし珍しい。質感はかぎりなく回想記に近く、たしかに自伝的要素はかなり多いようである。
「わたし」は働くのもはじめてであるし、ドイツにもドイツ語にも慣れているわけではない。さらに研修生なので会社でも立場が中途半端な上、さまざまな部門にたらいまわしにされ、精神的な負担は積み重なっていく。
しかし危機感や孤独感がそこまであるわけではない。基本的には恵まれた立場なのだ。
「わたし」の父親はその取次会社と取引のある日本の有力な洋書店の社長である。
「わたし」は作中では基本的に傍観者であり、自分からなにかに積極的にコミットすることはほとんどない。終始リスクを避ける態度なので「わたし」に共感することはすこし難しい。同時に内容の要請なのか、作中の時間の流れは同質であり、小説的な遡行も逆転もない。その点ではもしかしたらこの作品が新聞小説であったことが関係しているかもしれない。文体面でもやや単調である。発話を独立したパラグラフにしてつぎの行で「と、言って~」と受ける形がひじょうに多く、そのせいで語り性が強まっている。
プロットやストーリーといえるものはほとんどなくて全体的に均質なのだが、描写面でのでこぼこのようなものはある。一度奈良で会ってドイツで再会するマグダレーナとの関係だけはなかでも特別であるように描かれている。マグダレーナは優しく気まぐれで不安定である。
このように全体的に単調なのだが、時折異物のようなエピソードが挟まれる。ふたつ引用しよう。ひとつめは「わたし」が会社の窓から外を見たときのことである。通りには新規開店したスーパーマーケットが見える。
入り口の庇の下で四人の楽師たちが管楽器を演奏している。トロンボーンが伸び縮みし、トランペットの朝顔が灰色の空を見上げて光る。ドイツにもチンドン屋がいるんだな、と子供のようにウキウキして眺めていると後ろで、
「左から二人目がわたしの叔父よ」
という声がした。はっとして振り向くとそこには誰もいなかった。
「声」や「叔父」についてはこれ以上の説明はない。このエピソードは放り投げられたように現れる。二つ目はマグダレーナが働く「ハウス」の夏のお祭りにいったときの出来事である。
気がつくと華やかな賑わいの中で、わたしの立っている場所だけが黒い水たまりのように影になっていた。(中略)山高帽を被った小柄な老人が近づいてきた。背広はくたびれ、袖がほつれていたが、元は高級なオーダーメイドの服だったのではないかと思われる。老人はわたしと並んで立つと何の前置きもなく、
「194X年X月X日はX曜日でした。殺害されたのはX人です」
と言った。
窓辺で背後から聞いた「声」やこの小柄な「老人」はおそらく「わたし」にとって異物である。そしてその「異物」という語をキーワードにしたとき、このリアルな作品は異なった顔を見せるようでもある。つまり作品の中心であるように見える「わたし」はじつはこの作品にとっての異物なのではないかということである。この小説あるいは回想記は異物が異物側から見た光景を描いたものではないのか。
この感想があたっているかどうかはわからない。しかし「わたし」がコミットすることに慎重であるように見えるのは、自らの異物性を自覚しているせいのようにも写る。社会にあまりうまく適応していないマグダレーナと惹かれあうのも異物同士だからなのかもしれない。この作者の代表作と目されるものには異物や違和感がおびただしく登場する。その意味では、本書はだいぶ様子は違うもののテーマとしてはそれほど遠くないのかもしれない。単純な構造に見えるこの作品は、いったん語りはじめるとさまざまな顔を我々に向けてくる。(にしざき・けん=作家・翻訳家・音楽レーベル主宰)
★たわだ・ようこ=作家。ベルリン在住。「犬婿入り」で芥川賞、『容疑者の夜行列車』で谷崎潤一郎賞、坪内逍遥大賞受賞。『献灯使』の英訳版で全米図書賞の翻訳文学部門受賞。一九六〇年生。
研修生
多和田 葉子著
西崎 憲
本作の年代設定は一九八〇年代で、内容は若い女性である「わたし」が大学の卒業後に日本を出て、ドイツの書籍取次会社で研修生として働くというものである。半年あまりの期間のことが経時的に細密に語られる。時折現在の視点からの記述が挟まれ、エッセイあるいはノンフィクション的なその記述は本作のジャンル分けをすこし難しくさせる。さらに性別を表す代名詞は例外なく「女性」「男性」で、そのあたりも小説としてはすこし珍しい。質感はかぎりなく回想記に近く、たしかに自伝的要素はかなり多いようである。
「わたし」は働くのもはじめてであるし、ドイツにもドイツ語にも慣れているわけではない。さらに研修生なので会社でも立場が中途半端な上、さまざまな部門にたらいまわしにされ、精神的な負担は積み重なっていく。
しかし危機感や孤独感がそこまであるわけではない。基本的には恵まれた立場なのだ。
「わたし」の父親はその取次会社と取引のある日本の有力な洋書店の社長である。
「わたし」は作中では基本的に傍観者であり、自分からなにかに積極的にコミットすることはほとんどない。終始リスクを避ける態度なので「わたし」に共感することはすこし難しい。同時に内容の要請なのか、作中の時間の流れは同質であり、小説的な遡行も逆転もない。その点ではもしかしたらこの作品が新聞小説であったことが関係しているかもしれない。文体面でもやや単調である。発話を独立したパラグラフにしてつぎの行で「と、言って~」と受ける形がひじょうに多く、そのせいで語り性が強まっている。
プロットやストーリーといえるものはほとんどなくて全体的に均質なのだが、描写面でのでこぼこのようなものはある。一度奈良で会ってドイツで再会するマグダレーナとの関係だけはなかでも特別であるように描かれている。マグダレーナは優しく気まぐれで不安定である。
このように全体的に単調なのだが、時折異物のようなエピソードが挟まれる。ふたつ引用しよう。ひとつめは「わたし」が会社の窓から外を見たときのことである。通りには新規開店したスーパーマーケットが見える。
入り口の庇の下で四人の楽師たちが管楽器を演奏している。トロンボーンが伸び縮みし、トランペットの朝顔が灰色の空を見上げて光る。ドイツにもチンドン屋がいるんだな、と子供のようにウキウキして眺めていると後ろで、
「左から二人目がわたしの叔父よ」
という声がした。はっとして振り向くとそこには誰もいなかった。
「声」や「叔父」についてはこれ以上の説明はない。このエピソードは放り投げられたように現れる。二つ目はマグダレーナが働く「ハウス」の夏のお祭りにいったときの出来事である。
気がつくと華やかな賑わいの中で、わたしの立っている場所だけが黒い水たまりのように影になっていた。(中略)山高帽を被った小柄な老人が近づいてきた。背広はくたびれ、袖がほつれていたが、元は高級なオーダーメイドの服だったのではないかと思われる。老人はわたしと並んで立つと何の前置きもなく、
「194X年X月X日はX曜日でした。殺害されたのはX人です」
と言った。
窓辺で背後から聞いた「声」やこの小柄な「老人」はおそらく「わたし」にとって異物である。そしてその「異物」という語をキーワードにしたとき、このリアルな作品は異なった顔を見せるようでもある。つまり作品の中心であるように見える「わたし」はじつはこの作品にとっての異物なのではないかということである。この小説あるいは回想記は異物が異物側から見た光景を描いたものではないのか。
この感想があたっているかどうかはわからない。しかし「わたし」がコミットすることに慎重であるように見えるのは、自らの異物性を自覚しているせいのようにも写る。社会にあまりうまく適応していないマグダレーナと惹かれあうのも異物同士だからなのかもしれない。この作者の代表作と目されるものには異物や違和感がおびただしく登場する。その意味では、本書はだいぶ様子は違うもののテーマとしてはそれほど遠くないのかもしれない。単純な構造に見えるこの作品は、いったん語りはじめるとさまざまな顔を我々に向けてくる。(にしざき・けん=作家・翻訳家・音楽レーベル主宰)
★たわだ・ようこ=作家。ベルリン在住。「犬婿入り」で芥川賞、『容疑者の夜行列車』で谷崎潤一郎賞、坪内逍遥大賞受賞。『献灯使』の英訳版で全米図書賞の翻訳文学部門受賞。一九六〇年生。
書籍
| 書籍名 | 研修生 |
| ISBN13 | 9784120059605 |
| ISBN10 | 412005960X |
