柳田国男の宮廷時代
山下 紘一郎著
石井 正己
著者は、後藤総一郎監修『柳田国男伝』(三一書房、一九八八年)の執筆者の一人である。この大著は、高田馬場の寺子屋教室に集まった人々が柳田国男研究会を組織して、一五年にわたる学びを重ねた集大成だった。その際、著者は一一人の会員が書いた原稿のリライト役を務めた。それによって、寄せ集めの論文集や評伝集ではなく、筋の通った一冊になった。その後も柳田の研究は多方面から数多く生まれたが、今もって柳田の伝記研究において揺るぎない位置を占めている。
その後、著者が取り組んだテーマは、柳田における天皇制の問題だった。『柳田国男の皇室観』(梟社、一九九〇年)は、柳田が明治天皇の大喪・大正天皇の大礼・昭和天皇の進講と深く関わったことを論じた。ちょうど昭和天皇の崩御に伴って天皇制が活発に議論された時期だったが、これは批判にも擁護にも与しない手堅い伝記研究だった。
次にまとめたのが、『神樹と巫女と天皇 初期柳田国男を読み解く』(梟社、二〇〇九年)だった。前著で先送りした大嘗祭と非農耕民の問題と向き合うべく、初期の論考を読み込んだ。そして、天皇が生まれる起源に、聖なる樹の下で御杖を手にして託宣を行う巫女がいたと論じた。この場合、一転して、発生論的な作品研究になった。
従って本書は、柳田における天皇制を論じた三冊目の単著である。「Ⅰ宮廷時代」「Ⅱ 常民と天皇制――宮廷時代以降」に分け、Ⅰが書名になった。だが、宮廷と言えば平安京内裏を思い浮かべるのが普通で、時代錯誤の印象を与えかねない。それを承知の上で、兼任宮内書記官・貴族院書記官長時代をこう呼んだ。近代知識人の中でこのような宮廷体験を持つ人物は柳田だけしかいないことに、改めて注目したのである。
柳田は兄井上通泰の働きかけで兼任宮内書記官になり、明治・大正両天皇に近侍した。その宮廷体験が勤皇意識を育んだが、宮廷で知り得たことは口外してはいけないという守秘意識を生涯貫いた。さらに貴族院書記官長になって、大正天皇の大礼に奉仕した。大礼使のスポークスマンとしては、むしろ饒舌に多くの談話を残している。
だが、柳田は終了後「大嘗祭ニ関スル所感」を書き、旧暦の採用・神殿の縮小・潔斎の厳守を建議しようとした。献策先は元老山県有朋だったとされるが、先輩上山満之進の説得で思い止まったという。それでも、村々の秋祭が宮廷の大嘗祭と著しい類似を持つことを実感し、常民と天皇の関係を確信した。戦後の座談会で、「常民には畏れおおい話ですが皇室の方々も入っておいでになる」と言ったのも、驚くようなことではなかった。
本書で、むしろ、柳田の研究としても著者の展開としても新鮮なのは、Ⅱの論証である。とりわけ注意されるのは、靖国神社との関係である。GHQは靖国神社を軍国的神社の筆頭と見て、解体しようとした。それに対して靖国神社は、英霊顕彰から慰霊安鎮に転じて再生を図り、一九四七年、諸霊祭・盆踊り・懸雪洞からなるみたま祭を創始した。その際に、柳田の『先祖の話』に示唆を得たとされる。
靖国神社の禰宜坂本定夫は、ちょうどその時期、柳田に靖国神社文化講座の講演を依頼した人物だった。GHQに提出した日報に、みたま祭について、「日本の長い習俗として国をあげて死者の霊を祭り慰める時期に、神社としても此種の祭りを用うのは最も適当である」と記した。退職後の回想では、柳田にみたま祭について意見を聞くと、「戦没者の慰霊の祭は盛に行はなくてはならないと述べられ神社の計画に賛意を表された」と述べた。著者は、みたま祭は家々の先祖祭を補う効果があると考えて、柳田は賛成したと考える。
一方、侍従次長河井弥八の進言によって、一九二七年、天皇のお田植が始められていた。昭和天皇は生物学者であり、稲の生育にも関心を持っていた。柳田は昭和天皇が学問を行うことの文化的・学問的意義を説き、末弟三笠宮とはにひなめ研究会を組織したが、お田植については沈黙を守り通した。沈黙を論じるのは難しいが、天皇は大嘗祭・新嘗祭で稲を献上される祭主であって、自ら稲を作るのはおかしいと考えたにちがいない。
それにしても、一つのテーマで単著を書き重ねることは、実に難しい。研究機関に所属していれば研究しやすい環境にあるが、在野にあって自らの意思で研究を持続するのは容易ではない。それでも、柳田における天皇制の研究がこうして細部にまで深められた意義は大きい。なかでも、「畏れおおい話ですが」といった挿入句の指摘は、それこそ柳田の思想の表現研究である。そうした意味では、索引に依拠するような柳田の研究とは一味違う新境地を拓く一冊がここに生まれた、と言うことができる。(いしい・まさみ=東京学芸大学名誉教授、柳田国男全集編集委員)
★やました・こういちろう=元都立高校教諭。著書に『神樹と巫女と天皇初期柳田国男を読み解く』『柳田国男の皇室観』『柳田国男伝』(共著)など。一九四二年生。
書籍
| 書籍名 | 柳田国男の宮廷時代 |
| ISBN13 | 9784880594569 |
| ISBN10 | 4880594563 |
