文芸 12月
山田 昭子
私たちは日々の生活の中で様々な「基準」に囲まれて暮らしている。「労働基準」「品質基準」「合格基準」……。だがそれらの「基準」は常に絶対的なものであるとは限らない。変動しうる危うさを抱えながら存在する「基準」の中で、私たちは「守られる」と同時に「縛られている」のかもしれない。
『新潮』の特別企画「ダブルスタンダード」には二作が掲載されている。小説家である二人が、同時にそれぞれミュージシャン、お笑い芸人という立場を使い分けるように、作品もまた切り替わる二つの立場を描く。尾崎世界観「オケラカイドー」では足が不自由な父親が自身を不屈の競走馬になぞらえようとする一方で、8歳の「ぼく」もまた、毎週末競馬場に遊びに来る子供たちと馬になりきり、もう一つの競馬を繰り広げていた。「オケラカイドー」として馬になった「ぼく」が、人生という勝負は勝ち負けのみを追い求めるレースではない、ということに気がついた時、「ぼく」は勝敗に囚われてばかりの父親を置き去りにする勇気を獲得する。
ニシダ「けれど思い出す」に登場する独身男性キヨは、女と同棲する自分と、アートディレクターとしての自分との狭間で苦悩する。日常生活の安寧による自身の才能の枯渇を恐れているからだ。本作は今の「わたし」から過去の自分である「きみ」に呼び掛ける二人称小説で、結果的に女との生活を捨てたことでキヨは現在の地位を得ている。後悔はないものの、虚しさを覚える今の「わたし」にとっては、ただ「思い出す」という確認行為だけが現在の自分を肯定しうるものとなっている。
二つの立場が重なるという意味では新崎瞳「いぬいぬ」(『すばる』)もそうだろう。親から与えられた家と仕事、整形で得た美貌を活かし不倫と婚活に生きる花菜と、ドッグカフェ店員の傍ら自身の女としての「体を差し出す」ことで高額を得るもう一つの仕事に従事するミズキ。二人は人間に飼われるために「自己家畜化」し、その存在を対価にして生き延びるドッグカフェの犬タロウの存在と重なる。そして餌と見れば懐いていない花菜にすら尻尾を振る実家の犬ハナコに対して抱いていた過去の怒りが、現在の自身の抱える「息苦し」さと結びついた時、花菜は「解放されたかった」気持ちと同時に解放されることへの恐怖を自覚する。自分が求めていたのはタロウではなく首輪のない「犬」という存在なのだと気づいた時、花菜は「犬」を想像の中で「解放」し、恐怖に打ち勝つ大きな力を得る。
文藝賞受賞作坂本湾「BOXBOXBOXBOX」(『文藝』)は宅配所を舞台に、仕分け作業員の安、斉藤、稲森、そして彼らをまとめる契約社員の神代、四人の視点を切り替えながら展開する。宅配所に立ち込める「薄霧」、絶えずベルトコンベアを流れる「箱」は、異なる事情を抱えているはずの四人の境界を曖昧にし、各々を没個性で交換可能な存在にしている。物語の最後は、四人の意識を集約したかのような「私」の視点で語られ、夢から覚めた「私」が乗り込んだバスが宅配所に向けて「濃霧」の中を突き進むという閉塞感で終わる。それが望むものであるかないかにかかわらず、箱というものは開けてみるまで何が入っているかはわからない。箱であり続ける限りそれは没個性であり、閉塞感が絶えず伴う。だが一方で、箱とは開けない限り希望をもはらみ続けるのだということを、人は願わずにはいられないのではないだろうか。
くどうれいん「紙の爪」(『群像』)の江本は入社二年目の女子社員で、現在も売上表の書き方に自信がないが、会社の全員に好かれている総務のベテラン内川さんは、ミスの指摘もほがらかだ。ある時江本は、内川さんが手慰みに切り絵を作っていたことを知る。その切り絵の細密な模様は、とても美しい。だが、江本が惹きつけられたのは内川さんが捨てずに机上に積み上げた切り絵の破片の山であり、爪と見まがうそれには、「結界」のような侵しがたさがあった。退職日、送別会も断った内川さんは、母の介護という事情があったというだけで詳細が語られることはない。だが、美しい切り絵から切り離されたほんの小さな断片こそが、江本がうかがい知ることのできなかった、去り際の内川さんの表情だったのかもしれない。
阿部あみ「処暑」(『文學界』、二〇二五年度下半期同人雑誌優秀作)の宮井貴和子は経済的に困窮した元夫の石川拓朗を二階に住まわせ、金銭のやり取りを通してビジネスライクな関係を築く一方、パート先の上司三島郁子に頼まれ必要経費の出所が不明な「ボランティア」に参加している。拓朗はビジネスと割り切り取引先からオブジェを購入し、貴和子の母は来世のために「転生札」に大量の金銭をつぎ込む。拓朗のオブジェと貴和子の母の「転生札」の柄である亀の上に乗った三頭の象は、古代インドの世界観を表す。金銭は人間関係を近づけもし遠ざけもするが、その距離は各自の信じる価値観や世界観によって変動するものだ。貴和子の家の庭の百日紅は人の思惑とは無関係にただ季節がくれば花をつける。もし転生するのであれば庭木でもいいという願いは、既に人生の処暑を過ぎた貴和子にとって残りの人生のよすがとして光を放つ。(やまだ・あきこ=専修大学非常勤講師・日本近現代文学)
