野生の教養Ⅲ
丸川 哲史・倉石 信乃編著
高原 太一
読み返しているうちに、この本は、詩の言葉で書かれた旅のガイドブックなのではないか、と思い始めた。それならば、ずいぶん厄介で難儀な本の書評を頼まれたのかもしれない。
本書に収められた一七名による一四本の「論考、エッセー、コミック、詩など」は、旅と芸術という、飼い馴らすことが不可能な出合いが生み出す飛躍について、それぞれの経験と専攻から語ったものである。書き手は、明治大学教養デザイン研究科か理工学研究科建築・都市学専攻総合芸術系かに所属する、大学教員である。内容は紀行文をまとめたとは言い難く、「自伝的と言いうるほどに、真率かつ克明に自らの経験を再現している場合も少なくない」。あえて要約すれば、それぞれの学者が「旅」で出合い、摑み、忘れていく経験と記憶について、内省的に記したエッセイ/論集である。
しかし、ここで厄介なのは、語られている「旅」が、人生と同義であるのみならず、研究生活とも重ねられている点である。研究生活とは、「旅」の連続であり、かつその「旅」はマッピングがしにくい性質のものだろう。だから、どの書き手も、思わず詩の言葉で表現せざるを得ないのだと感じる。
しかし、キャンパスにいるとき、または講義の際には、詩の言葉は避けられる傾向にあるのではないか。そこでは、論理的で、誰が聞いても理解可能な言葉が選ばれる。ひどく官僚的な言葉を発することだってあるだろう。
そのような言葉づかいから身を剝がすためには、旅をするのが良いと編者は語る。私も、それにならって、ある場所に向かう列車のなかで、本書をひろげ、普段とは異なる景色に心奪われながら、本書について考え、帰りの列車で本稿を仕上げようとした。だが、どうもしっくりこない。色々考えたあげくに気づいたのが、冒頭に記した本書の特徴である。これは、詩の言葉で綴られているのだと。「語りの解放」に私も立ち会っているのだと。
旅のなかで、私は、次のような言葉に惹かれ、黄色のマーカーを引いた。
自分が歩む「自場」は、自分が関与しない「異場」によって支えている
あの瞬間が、この旅の始まりか、といえば、そうではない。この旅が始まったのは、もっと前のことだ。
その身振りは、島の中に滞留する、人々の中の黒々とした記憶の身振りではなかったか
旅先で僕たちは遠さと出会う。
問われるべきは、もはや人類にとり旅とはなにかという点ではなく、その旅を可能にする政治とはなんであり、その旅が可能にする政治とはなんであるかという点となる。
それまで全く面識のないオランダ出身のユダヤ人が車にバークマンを同乗させ、国境を越えてフランスまで送ってくれた。
いずれもが、アフォリズムと呼びたくなる力強い言葉である。しかし、書き手たちは、断言すること、つまり答えを明示するよりも、問いを探すことに、痕跡をたどることに熱心だ。その「道」を歩むためには、思考を支える足場の絶対的な強度が必要となる。
旅先で忘れがたい印象を残すのも、講義を受けて心に残るのも、内容や文脈から脱して立ち上がる、絶対的な風景や人の顔、格言のような言葉である。その強さは、丸川=荘子が印象的に記す「夜中に船をかついで逃げる」者たちの持つ心の強さとも重なるだろう。夜中に船をかついで逃げる者は、只者ではない。そこにみずからの行為や存在に対する絶対的な確信がなければ、そんなことは出来ない。
誰にでも、みずからのなかに深くしまいこまれ、その存在すらも忘れた「旅」の時間を持っている。誰もが、一度は、夜中に船をかついで逃げる覚悟を持って、ある道を選び、ここまで生きてきたのである。その忘れられた「旅」をもう一度、いま・ここから始めるために本書は編まれたのではないか。本書を手にした者は、きっと自分も「旅」をしたくなる。これは、相当に厄介で難儀な本だ。でも、そんな本と呼びかけを私はずっと待っていたのではなかったか。(たかはら・たいち=成城大学研究員・戦後民衆運動史)
★まるかわ・てつし=明治大学教授・東アジア文化論。
★くらいし・しの=明治大学教授・近現代美術史・写真史。
書籍
| 書籍名 | 野生の教養Ⅲ |
| ISBN13 | 9784588130489 |
| ISBN10 | 458813048X |
