2025/12/19号 10面

哲学するベートーヴェン

〈書評キャンパス〉伊藤貴雄『哲学するベートーヴェン』
書評キャンパス 伊藤貴雄『哲学するベートーヴェン』 佐通 美心  「われらが内なる道徳法則と、われらが上なる星輝く天空! カント!!!」  難聴を抱えたベートーヴェンが筆談のための「会話帳」に記した一節である。ベートーヴェンが生まれた近代ドイツ文化圏は、彼がその詩に曲をつけた、詩人シラーやゲーテをはじめ、実に多くの知の巨星たちが生まれた場所であった。本書はその「知の歴史」を星空に見立て、ベートーヴェンという一個の人間の思想が、《第九》交響曲のように、互いに響き合う数々の出会いを通して徐々に醸成されていく過程を、鮮やかに描き出す。近代ドイツ文化圏という名の星空には、無数の〝星〟が輝きを放っているが、本書はその中でも特に音楽家ベートーヴェンと哲学者カントに焦点を定め、周囲で静かに輝く星々との関係にも思想史研究という望遠鏡を向けている。  カントは「人間とは何か」という問いについて、さまざまな学問分野から革命的な思想を展開する。天文学者でもあった彼は、「宇宙」のスケールで「人間」を捉えた。私たちが住む宇宙には、地球が太陽の周りを公転するように、無限に運動が生じている。この運動は、どこから生じたのか。カントは宇宙空間に存在する、物質を引き寄せる力「引力」と、引き寄せられた物質が反発する力「斥力」という2つの力の関係に注目する。彼は、この相反する2つの力が不均衡にぶつかることによって、宇宙の運動は生じたと考えた。もしも2つの力が対立することなく永遠に均衡を保っていたとしたら、宇宙の運動が生じることはなく、現在のような無限の生成・発展・衰滅もあり得なかったと。彼はこの概念を、人間の世界にも応用していく。人間界においても、国家間の対立から家族間の対立まで、大小問わず争いが絶えない。しかし仮にすべての人間が同様の意見を持ち、永遠に均衡を保っていたとすれば、人類の発展・進化もあり得なかったであろう。不均衡で対立も生じるからこそ、人間も無限に発展していくことができる。これがカント「宇宙論」の主張のひとつである。  実はこの宇宙論の思想は、当時のヨーロッパでは一つのトレンドとなっていた。ベートーヴェン、カント、シラー。3つのきらめく巨星たちをつないだいわば星座線は、啓蒙時代のコスモロジーであったのである。ベートーヴェンは、周囲の多くの人々との出会いを通して青年時代からカント哲学に触れていた。この知的環境での経験は、彼の思想形成や作曲活動にも大きな影響を与えていくことになる。カントの大宇宙を想定した人間観は、ベートーヴェンの思想の根幹に深く根付いていった。  この宇宙論の思想が、ベートーヴェンの作品の随所にみられるのである。彼の晩年の最高傑作である《第九》『歓喜の歌』では、まさにカント宇宙論を思わせる「異なるもの同士の共存」を音楽で表現している。  人間は宇宙の法則と同様に、完全に「調和」することはできないが、「共存」することはできる。そうでないと生きていくことはできない。著者は、このような「緊張関係」に光を当てている。  そして「苦悩を突き抜けて歓喜へ」。一時は難聴の苦しみから神をも呪い、幾度も死を考え、遺書を書くほどに思い詰めていたベートーヴェンが、この言葉に至る過程には、何があったのか。そして、そこに込められた真の意味とは――。  「宇宙」「人間」「思想」における無限のつながりが、満天の星空のように無数の輝きを放ちながら照らしあっていることが、全体を通して熱っぽく伝わってくる。講義スタイルをとる本書では、まるで著者の情熱あふれる講義を受けているような、臨場感がある。  壮大な宇宙のごとく、私たちの思想は果てしなくつながっていく。  ★さつう・こころ=創価大学文学部人間学科2年。最近、哲学や文学をはじめとした芸術の奥深さに魅了され中。言葉・音楽・絵画の奥に無限に広がる思想世界に圧倒されている。

書籍

書籍名 哲学するベートーヴェン
ISBN13 9784065396704
ISBN10 4065396700