ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 424
ルノワールと「自由」
JD 映画館において、音はスピーカーを通じて、ごく普通の音として聞こえてきます。だから、役者は演劇のような発声の仕事をする必要ありません。映画を面白いものにするのは、人がどのような雰囲気で言葉を発しているのか、それが誰に向けて、いかなる空間において発せられているのか、その空間の内部配置はどうなっているのかといった事柄なのです。ルノワールはトーキーの一作目から、それらに関して完全に自分のものにしています。他の大部分の映画作家は、演劇の役者を連れてきて、演劇の舞台と同様に演じさせているだけでした。
HK ルノワールのトーキー一作目『坊やに下剤を』における「お入りください」という一言は、まるで『ゲームの規則』の冒頭で、ラジオ放送がトーキー映画であるのを強調していることに通じますね。
JD その通り。『坊やに下剤を』は、その後に続くルノワール映画の基礎となっている実験的な映画だからです。彼は、トーキーを通じて映画に何ができるかを考え続けた作家です。無声の時代のルノワールは、――私のお気に入りは『のらくら兵』ですが――『水の娘』や『女優ナナ』などの一九世紀的なものが多かった。彼は、とりわけ妻のカトリーヌ・ヘスリングのために映画を作っていました。一九世紀的なフランスは、ルノワールの晩年までの重要なテーマになっています。一九世紀とは近代フランスが成り立った時代であり、「自由」についての考えが生まれた時代であったからです。
HK ルノワールと自由というテーマについては、ドゥーシェさんが「ルノワールの全ての映画は『自由、平等、博愛』をテーマにしている」と度々語っています。
JD はい。ですから、あえて今語る必要はありません。それよりも無声の時代とトーキー移行後のルノワールで何が変わったか。この問題が重要なのです。答えは、根本的なところでは何も変わっていない(笑)。彼は、真の映画作家の巨匠がそうであるように、最初からすでに完成された映画を作っていました。『水の娘』のテーマは『ピクニック』や『草の上の朝食』、または『素晴らしき放浪者』に引き継がれていきます。『女優ナナ』は、『雌犬』や『ボヴァリィ夫人』などに形を変えていきます。『のらくら兵』は、『大いなる幻影』や『捕えられた伍長』になっていく。『マッチ売りの少女』や『チャールストン』といったちょっとした作品も、形を変えながら同じテーマが繰り返されています。ルノワールのあらゆる映画は、「自由」という一つのテーマについて、フランス中を舞台にして、様々な視点から考えたものになっているのです。そこに作品の良し悪しはありません。別の問題が取り上げられているだけであり、ルノワールの全ての作品は平等に素晴らしい。
しかしながら、『坊やに下剤を』はルノワールのフィルモグラフィーの中でも変わった作品です。あまり気を張らずに撮影された作品でありながらも、その後のルノワール映画へと繫がる発芽が見られるからです。ルノワールの映画は無声の時代から、本当に自由なものでした。アメリカ映画やドイツ映画みたいに映画の文法に縛られることなく、映画の生み出す雰囲気を原動力として映画を作っていました。
映画には一般的に「イマジナリーライン」と言われる規則があります。二人の人物が向かい合って話し合っているときに、カメラが越えてはならないというラインのことです。そのラインを超えて撮影した映像で編集をしてしまうと、空間の中の人物の位置関係を、見る人が理解できなくなってしまう。要するに、無声の時代の映画は、映像だけで全てを理解させなければいけなかったので、「言語の文法」ならぬ「映画の文法」が必要だったのです。しかし、ルノワールは第一作目からそうしたルールを無視しています。無声の時代のルール違反は、ちょっとした失敗とも言える些細なものでした。屋外での撮影を多く行っていたため、スタジオでの撮影のようにして完璧な位置関係で撮影をすることができなかった。その映像を、編集の段階で、自然な繫ぎになるようにモンタージュしたのです。そうした映像は、動きのある映像の一部として編集されているので、見ていてもあまり気になりません。また不自然な映像が、幻想的な雰囲気を生み出す効果もありました。 〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
