2025/04/11号 4面

映像文化論の教科書

映像文化論の教科書 鬼丸 正明著/坂上 康博編著 佐藤 彰宣  スポーツ観戦は、その大部分が映像を通して経験されるものといえよう。グローバル化が進み、海の向こうでの選手の活躍や国際大会の模様に注目が集まるなかで、その傾向はより顕著になっている。  だが、私たちがスポーツ中継に熱中しているとき、そこに映し出される試合展開や選手の姿にばかり目が行き、映像を通して見ていることを忘れてしまう。本書の問題意識はここにある。スポーツ映像は社会的に共有された映像の技法や文法に沿って作製され、視聴者である私たちも解釈を行っているが、そうした映像の技法や文法は意識されず透明のもののように見落とされてしまうのである。にもかかわらずこれまでのスポーツメディア論では、スポーツにまつわる映画を取り上げては、作品のなかに何らかの社会性を見出すことにとどまっているとして、著者は映像論の不在を指摘する。  映像論からスポーツ映像を分析するために、本書では「物語としての映像」に対して、「運動としての映像」という視点が提起される。ここでいう「運動としての映像」とは、「フレームと被写体に生じる位置的変化とそれによるイメージの情動的変化」を指す。それは、映し出されたものが動くこと自体に驚き、魅了された人々の映像体験、そうしたスペクタクルの欲望に満ちた映像の原点に立ち返って、スポーツ映像を捉え返そうという見地である。  「運動としての映像」の視点からスポーツ映像を捉えるうえで、まず人々の心理的な変化を促す映像技法の効果が、本書の前半では検討される。古今東西の映画作品についての丁寧な解説を交えながら、フレームや移動撮影、編集、さらに特殊効果や音響効果といった撮影技法や映像技術が、いかにして人々の情動を喚起するかについて論じられる。例えばショットに関して、通常映画のなかでは一分間のなかに一〇回もの映像の切り替えが行われるが、映画のなかで築かれたこの映像のリズムがプロ野球中継をはじめスポーツ映像でも基盤となり、視聴者にも無意識のうちに刻みこまれている。このように各章で扱われる一つ一つの映画の技法や文法が、現在のスポーツ中継のなかにどのように作用しているかに気づかされる。  スポーツ映像にも多大なる影響を与えた映像技法の解説を踏まえ、本書の後半では、「運動としての映像」の系譜を継ぐ作品群としてスラップスティック、ミュージカル映画、活劇、ドキュメンタリー映画が取り上げられる。各ジャンルの映画史に共通するのは、アトラクションとして経験されていた映画が、次第にストーリー性を重視するようになっていったことである。それは、黎明期のなかにあった「運動としての映像」が映画のなかで見失われていく過程といえる。スポーツ中継においても物語化がみられるようになるが、著者はその変容を悲観的には見ない。物語化の流れは逆行できないものとして、むしろ「運動としての映像」の視点を取りながら現代的な物語を探すよう提起する。単に現在のメディアとスポーツを全否定するのではなく、かといって現状肯定に甘んじるわけでもない。そこには、映像文化を歴史的視点で眺めることによって、視聴者が抱くスペクタクルへの欲望と取り結びながら、新たなスポーツ映像を構想しようとする著者の立場が見て取れる。  本書は、二〇二二年に逝去された著者の鬼丸正明氏が担当した一橋大学の講義科目「スポーツと映像文化」を書籍化したものである。闘病生活のなかで講義に取り組む様子は、編者による解説のなかで克明に記されており、本書は著者の長年にわたるスポーツメディア研究に裏打ちされた、その教育実践の結晶といえる。解説からは著者が実直に研究と向き合う姿とともに、その研究射程には公共圏論との関わりでスポーツ映像を捉えようとする壮大な構想も含まれていたことが分かる。  著者が残したスポーツ映像論は、私たちが日常生活のなかで何気なく接するスポーツ映像を、人々の経験に根差しながら批判的に分析する視座を提供してくれる。映像が身の回りに氾濫し、ビデオ判定があらゆる競技で導入されるなど、スポーツ界の現場にもただならぬ影響力を及ぼすようになった今日、本書で示された知見はより意義深い。映像とスポーツの親和的で入り組んだ関係を読み解くための最良の教科書であろう。(さとう・あきのぶ=流通科学大学准教授・文化社会学・メディア史)  ★おにまる・まさあき(一九五六―二〇二二)=一橋大学・武蔵野美術大学非常勤講師・スポーツ社会学・映像文化論。共著に『越境するスポーツ』など。  ★さかうえ・やすひろ=一橋大学名誉教授・放送大学客員教授・スポーツ史・スポーツ社会学。著書に『権力装置としてのスポーツ』など。

書籍

書籍名 映像文化論の教科書
ISBN13 9784787274724
ISBN10 4787274724