2025/07/04号 5面

フィクションとしての家族

フィクションとしての家族 吉田 耕太郎・西尾 宇広・福岡 麻子・藤原 美沙編著 泉谷 瞬  十八世紀から現代まで、近代という時代が作り上げた「家族」の姿をドイツ語圏文学から拾い上げる本書には、文学研究およびテクスト分析への強い信頼がみなぎっている。そもそも「文学」というジャンルは、一般社会どころか、時には学術研究の場ですら「歴史史料たりえない」という批判を招きがちであるが、本書はそうした批判への明確な応答を目指している。もちろん、文学テクストの表現や内容を「歴史的事実」の反映と受け取る素朴な方法を採用しているという意味ではない。そうではなく、むしろ「文学テクストが構築するフィクションは、一定の具体性をともなった社会的価値をつくりだす制度化の一翼も担っている」(「はじめに」)という認識のもと、「家族」の表象と丹念に向き合うことでしか得られない示唆を練り上げた論集だと言えよう。  第一部「家族の黎明:十八世紀」では、宗教的な意味付けによって実践されていた婚姻の形態から、市民的な核家族スタイルへ転換されていった時期に焦点があてられる。第一章(吉田耕太郎)は、カップル間における感情(特に愛情)の存在を、ゲラート『スウェーデンのG伯爵夫人の生涯』、ゲーテ『親和力』、レンツ『家庭教師』から見出し、「友情をともなわない愛情はいかなる帰結をもたらす」かという問いとしてまとめ上げる。現在のわたしたちが当然視しているようなカップル間の愛情・心理的な親密さが、必ずしも人々の結合を容易にしないという指摘が論集の冒頭で示される効果は大きく、現在の家族にまつわる常識を相対化することの意義を痛感させてくれる。続く第二章(菅利恵)は、十八世紀後期に多く書かれた「子殺し女」の作品群、そのなかでもレンツ『ツェルビーン』とゲーテの戯曲『ファウスト』に着目し、ハーバーマスが論じたような啓蒙的公共性の内側に潜む欺瞞を暴いてみせる。抑圧的な因習や家父長制の批判として機能した市民的主体のあり方が、その一方で家族メンバー(ほとんどは女性)が背負うケアの領域を覆い隠す役目を果たしてしまう時、子殺しのモチーフを通してテクストがその「不自由さ」を浮上させていた可能性を見抜く本章の展開は鮮やかであり、まさしく文学研究の面目躍如である。第三章(宮田眞治)は、ブレンターノ『ゴドヴィ』と、先行作品としてのゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』との比較を基点に、快楽と愛のパラドックス、そしてその両者を無理に統一させようとするロマン主義的な結婚の不可能性を予告するかのような批評性を論じている。第一部ではこのように、愛情を中心とした感情の問題が、いかにして近代的な婚姻制度や家族に埋め込まれていったかが分析される。  第二部「家族の危機:十九世紀」では、「旧態依然たる現実政治には背を向けて、家庭を中心とする個人のささやかな日常の幸福を追求する小市民的な文化」=「ビーダーマイヤー」(「導入」)を背景とした時代に移る。第四章(西尾宇広)は、かつてウィーン体制下において政治的急進派の立場を取った作家カール・グツコーが一八五二年に刊行した家庭雑誌『家のかまどの団欒』に掲載された小説から、後年に出現した母性主義フェミニズム(女性特有の社会的役割を本質主義的な発想によって称揚することで、女性の社会進出を図る動き)との類似性を見出す。第五章(藤原美沙)は、シュトルム『白馬の騎手』の精密な物語分析より、当時における理想の近代的家族像が個人の孤独や苦悩を解消し得ないという限界点を示す(他方で、作中に描写される非血縁者や動物たちとの関係性に、より親密な家族像の萌芽を見出している点も興味深い)。第六章(坂本彩希絵)は、マン『ブッデンブローク家の人びと』から、家庭内に閉じ込められざるを得ない十九世紀の上流市民階級女性の立場を捉え、その社会的制約がもたらす「不幸」と、家族意識に対する自尊心が逆説的に「幸福の源」にもなるという両義性を提示する。近代家族が「危機」を迎えたと見なされる時期、文学がそうした状況へどのように対応できた/できなかったのかを、第二部の各章は明らかにしている。  第三部「家族をめぐる闘争:二十世紀から現代へ」は、歴史的な状況に応じて再編される多様な家族像が主題となる。ディズニーのアニメ映画でそのタイトルが広く知られるザルテン『バンビ』を取り上げた第七章(川島隆)では、動物の生態に仮託された「父と息子の愛の絆」の価値付けが指摘され、また通常ではそうした表現が陥りがちな女性の他者化という危険性が、本作では人間の他者化によって巧妙に回避されることが論じられる。第八章(田丸理砂)は、精神疾患の「症例」として扱われる傾向のあったツュルン『暗い春』を文学テクストとして再読し、近代家族を構成するにおいて最重要の条件であるにもかかわらず、常にタブー視されるセクシュアリティの問題と、その抑圧と欲望の狭間にとらわれた「女の子」の行跡を見据える。第九章(福岡麻子)は、イェリネクの演劇『スポーツ劇』に組み込まれた、スポーツ・戦争・家族という一見異なる領域に位置するようなそれぞれの主題の連関を読み解き、男らしさというジェンダー秩序の異化を導き出す。第十章(徳永恭子)は、ナターシャ・ヴォーディンの家族小説と、ドイツの移民家族を描いた二本の映画『おじいちゃんの里帰り』、『さあ帰ろう、ペダルをこいで』を中心に、歴史的事実を追うドキュメンタリー的要素とフィクションが混合する新たなジャンル形成のプロセスを看取する。アウトサイダーの視点を強調する本章が末尾に置かれることで、本書のタイトルに含まれる「ドイツ語圏」という言葉の重要性は改めて意識されるものになるだろう。  虚構として構築される近代家族のありようは、しかし政治的言説のなかでは普遍的な概念に偽装される場合がほとんどである。現代日本もその例外ではないが、本書はそうした安易な言説に決して流されることなく、テクストから家族の多面的な姿を説明することに成功している。(いずたに・しゅん=近畿大学准教授・日本近現代文学)  ★よしだ・こうたろう=大阪大学教授。  ★にしお・たかひろ=慶應義塾大学准教授。  ★ふくおか・あさこ=東京都立大学准教授。  ★ふじわら・みさ=京都女子大学准教授。

書籍

書籍名 フィクションとしての家族
ISBN13 9784879844613
ISBN10 4879844616