プラムディヤ・アナンタ・トゥールとその時代 上・下
押川 典昭著
福武 慎太郎
二〇世紀のアジアを代表する作家、プラムディヤ・アナンタ・トゥールの評伝である。インドネシアにおける植民地期から独立後の軍事独裁政権の時代を生き抜き、二〇〇六年に八一歳で没したプラムディヤは、生前、長くノーベル文学賞の有力候補と目されてきた。本書はその生誕一〇〇周年という節目に刊行されたもので、インドネシアでも改めて過去の作品に注目が集まるなか、ここまで徹底した調査と資料に基づく重厚な評伝は他に類を見ない。著者の押川典昭は、日本におけるプラムディヤ作品の紹介者・翻訳者であり、プラムディヤの代表作である「ブル島四部作」(『人間の大地』『すべて民族の子』『足跡』『ガラスの家』めこん)の翻訳で読売文学賞を受賞した。
三度に及ぶ牢獄と流刑生活を経験したプラムディヤの人生そのものが劇的であることは言うまでもない。しかし押川の翻訳者として培った言語感覚と構成力があってこそ、上下巻一二〇〇頁の大著でありながら冗長さは一切ない。著者は、膨大なプラムディヤの全作品に加え、さまざまな史料と証言を丹念に読み解きながら、一人の作家の運命を通してインドネシア近現代史を描き出す。学問的な緻密さと文学的叙述の融合こそが、本書を極めて優れた伝記文学として成立させている要である。
本書は、東南アジア出身でノーベル文学賞に最も近づいた作家の伝記にとどまらない。押川自身が述べるように、それは「作家の眼を通したインドネシア通史」である。オランダ植民地支配、日本軍政期、独立革命、そして軍事独裁という激動の時代を経験したプラムディヤは、その作品を通じて常に「時代」と向き合い、描いてきた。そのまなざしは、独立革命を導く英雄ではなく、時代に翻弄される等身大の人々に向けられていた。とりわけ印象深いのは、プラムディヤの女性へのまなざしである。ジャワ貴族の妾となった祖母をモデルにした『浜の娘』(未邦訳)、オランダ人の現地妻ニャイ・オントソロが魅力的な主要人物となっている『人間の大地』、流刑地ブル島で出会った元従軍慰安婦たちを記録した『軍の魔手にかかった乙女たち』(邦題:『日本軍に棄てられた少女たち インドネシアの慰安婦悲話』コモンズ)――彼の作品は、家父長制と植民地支配という二重の抑圧に晒された女性たちを物語の中心に据える。プラムディヤが一九六〇年代に執筆した聡明なジャワ人女性カルティニの評伝は、オランダ植民地支配を正当化する啓蒙主義的まなざしへの批判であり、卓越したポストコロニアル批評でもあった。
約三億人の人口を抱えるインドネシアは、五〇〇を超える言語が話される多民族社会である。話者人口が百万人を超える言語だけでも一四にのぼる。プラムディヤは母語であるジャワ語ではなく、インドネシア語で書くことを生涯貫いた。慣れ親しんだ母語ではなく、インドネシア語で書き続けたのは、彼の強い意志の反映である。プラムディヤはオランダや日本の植民地支配と暴力に抗っただけでなく、家父長的な身分・階級社会であるジャワ社会そのものをも否定した。彼は植民地権力からのジャワ民族の解放を唱えたのではなく、新たなインドネシア人として生まれ変わる姿を描き出す。それは「ブル島四部作」の主人公ミンケが植民地権力と闘い、ジャワ人としての覚醒ではなく、まったく新しい国民意識である「インドネシア人」になる過程と重なる。
しかし、植民地権力と闘い独立を勝ち取った新生インドネシアも、やがて自国民に牙をむく。一九六〇年代、共産党系の文化団体に加入し活動していたプラムディヤは、反共政策の軍事独裁政権下で政治犯とされ、ブル島に一〇年間流刑された。苛烈を極めた流刑地生活は、植民地時代の牢獄よりも過酷であった。流刑地で彼が出会ったのは、日本に留学できると欺かれ、戦後も祖国に見捨てられた元慰安婦の女性たちである。ナショナリズムとは何か、解放とは誰のためのものか――この問いがプラムディヤの作家人生、そして本書の叙述を貫く根幹のテーマである。
プラムディヤは、終生「闘う文学者」であった。一九六〇年代に政治と文学の分離を唱える作家たちを激しく批判したその姿勢をめぐっては今も評価が分かれるが、彼にとって文学とは権力と暴力に抗う唯一の武器であった。押川は、この峻烈な作家の生涯を、英雄譚としてではなく、二〇世紀のナショナリズムにおける文学と政治の交錯する場として描き出す。その語りは、緻密な資料に基づき慎重に事実を積み重ねながら、圧倒的なドラマ性を備える。史実を叙述しながら読者を物語へと導く筆の運びは、まさにプラムディヤ自身のストーリーテリングに呼応している。押川は評伝という形式を文学へと昇華させ、史実の中に人間存在のドラマを浮き立たせている。
本書を読むことは、植民地主義から人々を解放する二〇世紀の理念であり続けたナショナリズムの光と闇を改めて見つめ直すことである。そしてその壮大な歴史叙述を、ひとつの伝記文学として完成させた押川の筆致こそ、評伝の枠を超えた輝きを放っている。プラムディヤの生涯を通じて描かれるのは、国家の暴力に抗う人間の尊厳の物語であり、それを伝記文学のかたちで甦らせた押川の筆力こそ、本書を傑出した評伝たらしめている。(ふくたけ・しんたろう=上智大学教授・人類学・東南アジア研究)
★おしかわ・のりあき=大東文化大学名誉教授・インドネシア文学研究者。訳書に『果てしなき道』『ゲリラの家族』『人間の大地』『すべての民族の子』『足跡』『ガラスの家』『アルジュナは愛をもとめる』など。また本書は、第七九回毎日出版文化賞特別賞(一一月三日発表)を受賞した。一九四八年生。
書籍
| 書籍名 | プラムディヤ・アナンタ・トゥールとその時代 上・下 |
| ISBN13 | 9784839603434 |
| ISBN10 | 483960343X |
