ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 399
アルモドバルとスペイン映画
JD スペイン映画の中で、エロイ・デ・ラ・イグレシアの映画は悪くありません。私は数本しか見ていませんが、カルロス・サウラの映画などよりもよほど良い。つまり、そうした映画作家たちは、言うならば――規模は小さくとも――スペインのヌーヴェルヴァーグの一部をなしていたのです。オランダのヌーヴェルヴァーグがポルノ映画のジャンル内で発展したように、大なり小なり世界中で同時期にヌーヴェルヴァーグが起きていました。スペインの場合――とりわけイグレシアの映画の場合――テーマはアルモドバルのものと似通っています。つまり、ブルジョワの生活ではなくて、郊外の団地などを舞台にして、貧困層の若者の生活を描いていた。さらには、社会の余白にある人々、つまり与太者や男娼の生き様を問題としていました。貧困層の生活においては、常にお金の問題が付きまといます。生きるためには、お金が必要になる。そのお金を得るためには、働くだけでは十分ではないことがあります。そのために、盗みを働いたり、自らの身を売ったり、さらには薬に手を出すことになる。そうした人々の生活を、スペインの映画作家たちは撮影したのです。当然ながら、スペインのお家芸とも言える『カルメン』的なメロドラマ仕立てになっていましたが(笑)。そのこともあってか、二〇〇〇年頃まで、その種の映画がスペイン国外に出ることはほとんどありませんでしたが、それなりに重要な映画が存在していました。スペイン国外で「キンキ・シネマ」が注目されるようになったのは、アルモドバルの尽力もあったでしょう。彼の映画は、そうしたスペイン映画の歴史の影響下にあるからです。
それだけでなく、アルモドバルは、同時にハリウッドの巨匠の影響も受けています。つまり、ジョージ・キューカーやジョセフ・マンキウィッツの影響も無視することはできない。彼らはハリウッドの巨匠でありながら、社会の余白となる人々の姿を捉えていました。ハリウッドにおいても、非常に古くから表現のタブーに挑戦しようとしていた映画作家がいたのです。直接的には取り扱っていませんが、そうした映画作家の作品を見ると、同性愛やアルコール中毒、薬物中毒といった問題が、遠回しに表現されていることがわかります。さらにアルモドバルの映画は、当然ながら、女性たちの生き様の問題が大きく関わっています。
その分野においてジョージ・キューカーは開拓者でした。彼は、初めて同性愛を表明した映画作家の一人でもあります。そしてキューカーの登場人物たちも、同性愛を感じさせることがしばしばある。女性を男性のようにして撮影し、男性を女性のようにして撮影した、初めての映画監督とも言えます。その際に、ハリウッドにおいて理想化された女性ではなく――長年に渡り映画の世界において女性たちは単純化されたオブジェのようにして扱われてきた歴史があります――ありのままの人間として扱っていたのです。自らの欲望のままに振る舞うこともあれば、社会の圧力に真っ向から反抗することもある。キューカーの映画は、もしかすると今日の若い観客の方が惹きつけられるかもしれません。公開当時は、決していい評判ばかりではありませんでした。私は昔から擁護していましたが、他の批評家は真に重要な映画監督だとは考えていなかったのです。『カイエ』の内部においてさえ、キューカーを好んでいたのは私くらいでした。他の批評家が、彼の映画に興味を持ち始めたのは七〇年代の終わりくらいからです。しかし、その頃にはキューカーはほとんど作品を撮ることができていなかった。ヌーヴェルヴァーグ以降、映画を撮ることができなくなっていた映画監督の一人になっていたのです。何本か佳作と言える作品を撮った後、存在自体が忘れられていた時期がありました。スターの出演する有名な作品を除けば、シネフィルしか彼の映画を見ていなかった。それが再び注目されるようになったのは、ちょうどアルモドバルの映画が有名になってきた頃です。
HK アルモドバルの映画を見ていて興味を惹かれるのは、そうした同性愛的な彼固有の主題の面もありますが、どちらかというと映画の作りの方です。脚本から編集に至るまで、時間の移り変わりが非常に面白い。
JD 同意します。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)