2026/03/27号 1面

麦とTwitter

対談=久木田 水生×岩内 章太郎<テクノロジーの発展、人間の変化>久木田水生著『麦とTwitter』(共立出版)刊行を機に
対談=久木田 水生×岩内 章太郎 <テクノロジーの発展、人間の変化> 久木田水生著『麦とTwitter』(共立出版)刊行を機に  久木田水生さん(名古屋大学准教授)が『麦とTwitter 情報技術がもたらすコミュニケーションの変容』(共立出版)を上梓した。インターネット、スマートフォン、ソーシャルメディア、人工知能、VR、ロボット――目まぐるしく変化する情報技術に対し、私たちはいかに向き合うべきか。本書の刊行を機に、久木田さんと岩内章太郎さん(豊橋技術科学大学准教授)に対談をお願いした。     (編集部)  岩内 非常に楽しく読ませていただいたというのが、最初にお伝えしたい感想になります。事前情報で本書が400頁ほどあると目にしていたので、実は少し構えていたんです。しかし、いざ読み始めると躓く箇所がなく、一気に頁が進みました。科学技術について書かれた本には、読むのに一苦労する難しいものから簡単すぎるものまでさまざまありますが、本書はどちらかに片寄ることのないまま、かなり広い読者層を想定している印象です。科学技術の専門用語から、ポストトゥルースやフェイクニュースなど、最近よく使われるようになった言葉や概念もひとつひとつ丁寧に説明される。文学や音楽からの引用も多く、あらゆる層への入口が準備された構成になっています。  久木田 ありがとうございます。自分の子どもが中学生になったこともあって、できれば本に多少は触れている中学生や高校生にも読んでほしいと思いながら執筆しました。特に読みやすさ、分かりやすさは意識していたので、そのように言っていただけて嬉しいです。当初は副題を「コミュニケーションの哲学と倫理学」にしようと考えていたのですが、技術哲学の話だけでは業界内の話に留まってしまう。思い切って哲学や倫理学を外し、「情報技術がもたらすコミュニケーションの変容」にしました。研究者向けというよりは、年齢や職業を問わず、読んだ方が学びや発見を得られる内容を目指したつもりです。  岩内 実際、この本が論じているのは今の副題の内容ですよね。インターネットや人工知能、ソーシャルメディアなどの情報技術の誕生や発展が、人間のコミュニケーションにいかなる影響を与えたのか。もしくは今後与えるのか。個別のテーマはもちろん面白いのですが、私が強く惹かれたのは、科学技術をめぐる久木田さんの信念対立の描き方です。  久木田さんはテクノロジーに対して、楽観的になりすぎても、悲観的になりすぎてもダメだという立場を取っている。第2章では、「本書において素朴な道具主義も技術決定論も採らない。テクノロジーがどのようなバイアスを持つのか、それがどのような人間の特性・脆弱性と相俟って有害な帰結をもたらすのかといったことに関心を払いながらテクノロジーについて考えていく」と述べられています。このモチーフは、エピローグでも「悲観と楽観(再び)」という見出しで繰り返される。それぞれに信念対立がある中でいかに合意形成をしていくのかは、自分の専門である現象学にも関わるところなので、久木田さんの論の展開方法が大変勉強になりました。  久木田 私は、テクノロジーに対する極端な楽観視も、極端な悲観視も危ういと思っています。どちらの言説にも、同意する部分と良くないと感じる部分がある。どんな技術にも正と負の両面があり、それに対する賛否は各々の価値観や環境に左右されます。だからこそ、新しい情報技術を実際に導入する時にはどちらの観点も取り入れた慎重な議論が重要になる。  とは言いつつ、インターネットやソーシャルメディアなどの情報技術に対して、私もかつては悲観的な意見を持っていました。テクノロジーの発展は、それによる利益よりも、人間にとって本当に大切なものを失わせるだろう。そういう懸念の方が強かったんですね。ですが、いろいろな先行研究を読んだり技術開発者の話を実際に聞くうちに、情報技術の発展は単純に良い/悪いで判断できないと考え直しました。おそらく本書には、私のどっちつかずの姿勢が表れていると思います。両方の立場から批判されるかもしれないけれど、それでもどちらかの立場に寄った議論を展開したくありませんでした。  岩内 久木田さんの筆致が巧いのは、どちらの意見にも完璧には同意しないけれど、次世代や技術開発に携わる人へ伝えたいこと、本当に考えるべき問題の焦点をはっきりさせているところです。技術に対し、なんとなくの印象で良し悪しを判断するのではなく、過去の経緯も含めてしっかりと向き合う。もっと丁寧に、正と負それぞれの事象を分析していく。これが本書に一貫する意識だと思います。ただ、今のお話によると、久木田さんは最初は悲観的な論にシンパシーを感じていた。そこからなぜ、今のようなお考えに変化していったのでしょうか。  久木田 アメリカの社会学者シェリー・タークルは、スマートフォンやソーシャルメディアの登場によって、対面の会話が減っている状況に警鐘を鳴らしている。本書では悲観主義の立場を代表する一人として言及しました。情報技術が人間関係やコミュニケーションに与える影響について考え始めた時に読んだのが、タークルの“Alone Together”(邦訳『つながっているのに孤独』)だったこともあり、当時の私には、テクノロジーの発展によるマイナスの側面が目についたのだと思います。  それが変わったのは、テクノロジーの発展をポジティブに捉える楽観主義の主張も知ったからです。オフラインとオンラインが融合した、新しい生活「オンライフ」を提唱するルチアーノ・フロリディ『第四の革命』や、技術と人間の関係について考察するアンディ・クラーク『生まれながらのサイボーグ』などを読むうちに、楽観論/悲観論どちらにも理があると思うようになっていきました。  そもそも、情報技術あるいは技術一般の発展により、コミュニケーションや社会の在り方などが正負の両面において変化するのは、珍しいことではありません。むしろ、人類史は常にそういう形で進んでいった。本書で言及したユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』では、農業革命は当時の人を幸せにしなかった「史上最大の詐欺」だと述べています。現代の文明や豊かさは間違いなく、農業が始まったからこそ築けました。でも、いくら後の世界が発展しても、農業革命直後に飢饉で苦しんだ人たちの慰めにはならないとハラリは言います。  未来の人からすると、今の我々の状況も近いのかもしれないと思います。何百年先かに、「あの時、インターネットや人工知能をはじめ情報技術の大きな革命が起きたことで、この世界は豊かになった」と言われている可能性はある。けれど、当事者である私たちは、現代の状況を手放しで喜ぶことはできないでしょう。上述のようなタークルの懸念のほかにも、偽情報、陰謀論、社会の分断、依存などの問題があり、人工知能をめぐっても多くの課題があります。テクノロジーの発展による影響の良し悪しは、現段階で判断することは難しいと、私は考えています。  岩内 本書を読むと、技術発展を問題視するのは現代に限った話ではないとよく分かります。たとえばコミュニケーションそのものを扱う第3章では、言語という新しい発明を我々の祖先がどのように受け入れていったのかが、複数の先行研究とともに紹介される。翻って、SNSが大きな影響力を持ち、インターネットや人工知能、ロボットなどがどんどん進化している今、進行形で起きている問題は50年後、100年後にどう見えるのか。そういう人類史的な視点が浮かび上がってくるのも、本書の面白いところです。  私の専門に引き寄せると、『精神現象学』を書いたヘーゲルは自由について歴史的なパースペクティブで考えています。人間が苦しんだり悩んだり、内面に閉じこもったりするのは、自由が展開する契機のひとつでしかない。ヘーゲルの哲学体系に則ると、個別具体的な場面で苦しんだり搾取されたりしている人も、自由が発展するための一つの契機として見なされます。この考え方自体は分かるけれど、時々すごく冷たく感じるんですね。対して久木田さんの筆致は、歴史的パースペクティブに目を開かせつつも冷たさがない。これはやはり、悲観的な論にも楽観的な論にもいい点悪い点を見出しているからこそだと思います。  岩内 個別的な話もできればと思うのですが、第5章「情報コモンズの悲劇」で論じられるサイバースペースにおける承認と依存は、今の社会を理解するうえで非常に重要な問題ですよね。私が担当している学生たちも、ソーシャルメディアのループから抜け出せないとよく言っている。勉強したいのに気づいたら2時間TikTokを見てしまうと悩んでいた学生に、「それならNetflixで映画を観たほうがいいのでは?」と尋ねたことがありました。すると、本人も強く同意するんですよ。なんなら、その時間が無意味だと誰よりも感じている。それでも、最低90分の時間を確保し、腰を据えて始めなければならない映画に対し、TikTokは何も考えず開けばいいから入り口が軽い。だから、結果的にはだらだらと見続けてしまうと話していました。  無論、すべての行動が生産的である必要はありません。本人が楽しいのであれば別にいい。私はショート動画は見ないけれど、家でお酒を2〜3時間飲むことはある。学生たちと私の違いは、彼ら彼女らがその時間を楽しんでおらず、むしろ「この循環から抜け出したい」と思っている点です。映画の方が有意義な時間の使い方だと本人自身が考えているのに、どうしてもより手軽な方へと流れてしまう。これは良い傾向とは言えない。  久木田 現代のコミュニケーションは、LINEをはじめとしたSNSを使用することが前提になっているので、スマホから距離を取りたくても難しいですよね。相手がいる以上、何時間も返信しないのもまた、プレッシャーになる。LINEの返信ついでにインターネットを見て、そのまま眺めてしまう気持ちはよく分かります。現状、多少の強制力はやはり必要なのでしょう。中高生ならたとえば「9時以降は連絡禁止」というルールが家や学校で設けられていることで、連絡しないことへのエクスキューズが可能になる。コミュニティ内でそうしたルール設定を自発的にできるようになると、また違ってくるかもしれません。  また、ソーシャルメディアは明確な意図をもって設計されていることに、意識的であることも重要だと思います。メタやX、YouTubeなどの企業は研究を重ね、人々の関心を自分たちのサービスに繫ぎとめる設計を考えている。自分が動画を「選んでいる」のではなく「見せられている」と知れば、サービスそのものに冷める可能性があります。あとは、お酒を飲む人全員がアルコール依存症になるわけではないように、ソーシャルメディアへの依存もサービスだけの問題とは言い切れない。個人的な特性やその人が置かれている状況、特に孤独や貧しさなどの要因もあわせて考える必要があります。  岩内 サイバースペース上の承認欲求に関しては、先ほどの情報技術の進化と重なる論点です。まず、多くの人に認められたいという欲求は、インターネットの登場によって生まれたわけではありません。承認を求める人間も孤独な人間も、少なくも近代以降、時代を問わず、ずっと存在していた。久木田さんは本書で、なぜ承認を求めるのか、承認欲求は悪いものなのか、意思決定だけの問題なのかを歴史を遡りつつ、整理していきます。SNS上の孤独というテーマにだけに絞ると、まるで問題がネット空間の中で新たに生まれたように見えてしまう。しかし正確には、もともと孤独を抱えていた人がSNSに接続したことで、今までとは違う形で孤独が表面化してきているんですね。人類史的に見ると、承認欲求や孤独の問題の核心は、SNSではなく人間側にあると考えられます。  久木田 近年、承認欲求や孤独感が高まっているように見えるのは、情報技術が原因なのか、それとも情報技術は問題への解決として発展したからなのか。これを考えるには、インターネット以後ではなく、それより前も含めたもっと大きな視点で見ていくべきです。特に孤独の問題は近代化の過程――産業や経済構造の変化、それに伴うコミュニティや家族の形の変容の中で進んでいった。情報技術は、その変化と並走するかたちで発展したものです。  アメリカの政治学者ロバート・パットナムは、20世紀後半における社会関係資本の減少の大きな原因の一つとして、テレビやビデオゲームの普及を挙げています。事実、それらのメディアが広がった時期と、地域コミュニティの結びつきが弱まった時期は重なっている。けれど、一概にテレビやゲームが原因で、孤独が加速したと断定はできません。社会構造の変化によって人々が孤立しやすくなり、孤独な時間を埋める手段としてテレビやゲームが広がったという側面もあるでしょう。現代のSNSも同様の面がある。核家族化や単身世帯の増加が進む現代において、ひとりの時間を充実させたり、寂しさを埋める手段として、SNSが普及しているという背景は見逃せません。テクノロジーの問題を考えるには、社会状況も考慮に入れることが重要です。  岩内 情報技術の発展だけが問題ではないというのは、私も感じます。「近代」とは、移動の自由が認められ、生き方や住む場所を自分で選べるようになった時代です。世界にはさまざまな宗教や文化、習俗があり、それらをどのように受け入れるか、あるいは距離を取るか。他者の自由を著しく侵害しない限り、生き方も住む場所も自分で決めていいというのが、近代の前提です。  その近代において、哲学ではハイデガーやサルトル、ヤスパースなど実存主義が出てきました。近代哲学では、自由と孤独の表象が結びついている。自由な主体としての人間が自律し、本来的な生き方をするには、世間的な価値観や常識からは距離を取る必要がある。一定の孤独を引き受けなければ、本当の自由には到達できないということですね。  さらにポストモダン以降になると、共通性より差異や多様性が前面に出てきます。自由を追求するほど、他者や共同性から離れることになり、結果的に孤立が深まりやすくなる。たとえば地域の自治会が煩わしくて、「ゴミ出しは個別に契約するのでゴミステーションは使わない」と言う人がいますよね。私も気持ちは分かります。地域の共同体や対面の関係は面倒なことが多い。  では、それらすべてを解体して自由になることが、本当に人間にとっていいことなのか。十年ほど前の私は、自由な個人が自発的に連帯し、新しい共同体を立ち上げていくイメージを抱いていました。けれど今は、人間はそれほど強い存在ではないと思っています。むしろ、ある程度の枠組みや外部からの手助けがないと、連帯や新しい共同体をつくることは難しい。  その意味で、テクノロジーが何を実現し得るのかだけでなく、人間がどう使うのかまで論じている本書は非常に示唆的です。第7章「コミュニケーションの未来」におけるアバターとアイデンティティの関係、350頁前後で言及される「対面神話」の議論は、自由と孤立というテーマとも重なります。  久木田 先ほど名前を挙げたタークルは、著書の“Reclaiming Conversation”(邦訳『一緒にいてもスマホ』)で、対面での会話の重要性を強調しています。身体性や非言語的なサインなど、対面的なコミュニケーションこそが信頼関係や他者への共感力、絆を深めるのだ、と。もっともだと思うのですが反面、ICTを介したコミュニケーションが対面の会話を完全に奪い、社会に壊滅的な影響を与えるかというと、そうはならないはずです。コロナ禍でZoomなどのビデオ通話は普及したけれど、多くの人は対面で会えるようになると、自然と直接会う形に戻っていきましたよね。  大多数の人にとっては、対面もオンラインもコミュニケーション手段のひとつに過ぎない。対面によるコミュニケーションが極端に失われると問題は生じると思いますが、ビデオ通話、ソーシャルメディア、電話、手紙など、複数のコミュニケーション手段が存在しているのは、今のところメリットが大きいと感じます。  岩内 第1章に「対面コミュニケーションという「無理ゲー」」という見出しがあるように、久木田さんは対面のしんどさも述べられています。人と直接会ってやり取りするのは情報量も多いし、確かに面倒なことが多い。ですが、この先、対面コミュニケーションがなくなるかと言われたらそうはならない。現に学生同士は、インスタの投稿を対面で見せ合って盛り上がっていますからね。  必要以上に対面にこだわる必要はないし、学生たちは学生たちでちゃんとルールや運用を考え、ツールを使い分けています。この前聞いた話によると、彼ら彼女らの中では、対面→電話→メール→LINE→インスタのDM→その他のアプリと、連絡方法の重要度が存在するそうです。また、学生たちとご飯に行くと、私が席にいる間はみんなスマホを見ないか、伏せて置いている。むしろ私たちの世代の方が、誰かと食事中でもスマホを確認したりします。  久木田 私が本書で引用した「対面神話」という言葉は、哲学者の呉羽真さんが使っているものです。情報技術を批判する際、タークルのように対面コミュニケーションを殊更に重視し、ICTを介したコミュニケーションをそれより劣ったものと考える傾向を呉羽さんは「対面神話」と呼んで批判している。対面を絶対視するような考え方は偏見で、メディアの影響について考えるなら、個別のテクノロジーの特性、利用者の属性、家庭環境や社会環境などを考慮する必要があると指摘しています。  また呉羽さんはコミュニケーションツールの選択それ自体がひとつのメタメッセージになると述べています。コストの大きい対面を選ぶのは、相手とのコミュニケーションを重要なものだと考えている意思表示になる。手軽な方ばかりを選んでいくと、人によっては「私とのコミュニケーションはそれくらいのものなのか」と受け止められかねない。ツールそのものにもメタメッセージが込められていると理解しながら、適切に使っていく必要があります。  岩内 一方で、対面でのやりとりが面倒を超えて苦痛になるのも困ります。私はいろんな世代と哲学対話をするのですが、特に大学生の感想として出てくるのが、「対面ではなく匿名のオンラインでやりたい」です。「その方が意見も言いやすいし、効率的に情報を収集できる」というのは、一面ではその通りなのかもしれない。でも、今の世の中ではまだ、対面で顔を合わせて言わなければならないことが多々ある。対面で告げなければならないことまでも心理的な障壁が低いチャンネルに移行されると、どこかで必ず問題が生じます。  一例として、私個人は、命に関わることは、命ある存在から直接告げられたいと思っています。ロボットやLINEで余命宣告を受けることには、どうしても抵抗を覚える。でも、これは現在の私の欲望です。この先、ロボットが生活のなかに深く入り込む世界になれば、それが自然だと思う世代が現れるかもしれない。今現在の欲望が未来永劫、形を変えずに続くことはあり得ないので、将来、ロボットと共生関係を結ぶことになったとして、人間の欲望はどのように変化するのかは気になります。  いま私がロボット工学や生物学の専門家と一緒にやっているプロジェクトの一つに、災害現場で消防士と協働する自律汎用型ヒューマノイドの開発があります。ロボットを道具としてではなく、一定の自由な裁量を持った同僚に近い存在として設計するというものです。利点もあるけれど、ロボットと共生関係を結ぶことによる人間の負担や変化も同時に考えなければならないでしょう。特に消防という命を左右する現場では、場合によっては〝死なない〟存在のロボットを犠牲にすることで、要救助者を救える状況が発生するかもしれない。その時に、ロボットと同僚関係を築いた消防士はどのように対応するべきなのか。おそらく、今とは違う倫理観や職業意識が求められます。  久木田 人間は、自分や動物に似たものに対して勝手に心や意図、欲求を読み込んでしまう。そのため何のルールもなければ、緊急事態に人命より同僚ロボットを大事にしてしまう可能性は否定できません。地雷除去用の小型ロボットのように、外見が人間らしくない機械であっても、共に働くうちに感情移入してしまうことはある。実際、戦地で地雷除去ロボットが壊れた時に、「こいつを助けてくれ」と言う兵士がいるという話も報告されています。  こういう心理を積極的に活用しようとする研究もあります。人間同士は、表情やジェスチャー、身体的なサインから相手の感情や行動を察知しますよね。ヒューマノイド研究の分野では、あえて意図があるかのようなジェスチャーや表情をロボットに与えることで、人間がロボットの次の行動を予測しやすくする設計が試みられています。  でも、これが進むとユーザー側の擬人化も感情移入も強くなって、いざという時に道具として扱えなくなるかもしれない。ロボットを優先し、人間よりも配慮を向けてしまうことは不正義だという立場も十分に理解できます。ロボットに愛着を抱くこと自体はよくても、ロボットがケアを受けるべきかは、倫理学者の中でも意見が割れている。まだまだ議論され尽くしていない問題ですが、おそらく災害現場など緊急時には、人間中心であることが法や制度の基準になるでしょう。  岩内 人間に危害を加えないという原則は最低限の防衛ラインとして設定されると思います。その前提が守られている限り、個人がロボットにどれだけ愛情やお金を注ぐかは、基本的には自由だと私は考えます。隣に飢えで苦しんでいる人がいるのに、自分の飼い犬に高いステーキを与えている人は全然いますよね。自分のリソースをどこに使うのかと法整備の話は、分けて考えた方がいい問題です。  久木田 仰る通りです。私も、他者の自由を侵害しない限りは、個人がロボットを大事に思うことまで非難しなくていいと考えている。人間は、同じ人間にも動物にも物にも、推しのアクリルスタンドにだって愛着を抱く。ロボットがそこに加わったからといって、特別視する必要はない。最近は、生成AIに感情移入する人もいるそうです。愛着のリソースを何に向けるかは、個人の自由として尊重されるべきで、本人が自分で選び、満足しているのであればよい。でも、「本当はこんなに時間や感情を割きたくないのに、やめられない」という本人の意思に反する状態であれば、SNSと同じく依存の問題です。そこは社会として目配りや対応が求められます。  岩内 同時に、警戒すべきは人間に近い姿かたちのロボットが出てきた場合、それを隷属状態に置いたり何でも言うことを聞く存在だと捉える人が一定数いるだろうということです。今でさえ、生成AIに対して強く出る人はいる。相手は自分の道具なのだという感覚や欲望をあまりに身体化しすぎて、現実の人間関係にまで持ち込む人が出てこないか。大半の人はそんなことにはならないはずですが、注視すべき事柄ではあります。  久木田 ロボットに対する態度が人間にも延長されるのではないか。ここは、今後非常に気にしておくべきですね。本当にリアルな、人間に近いロボットが登場した時、ロボットは人間の道具であるという感覚がどう変わっていくのか。ロボットでなくとも、VRのような技術が進化すると現実との区別がつかなくなる可能性だってあるわけです。そんなことにはならないという意見もあるけれど、どうなるかは分からない。  岩内 人間の多様な欲望は他者を害さない限り肯定されるべきだと私は考えますが、その一方で、ソクラテスの時代から哲学の中心には、よりよく生きるとは何かというテーマがある。その観点から考えると、たとえば久木田さんが本書で論じられていたセックスロボットという存在は、本当に人間にとってよいものなのか。ロボットは人間ではありません。道具のひとつなので、原理的には「何をしてもいい存在」とも言える。では、「何をしてもいい相手」に本当に「何をしてもいい」のか。自由が与えられたからといって、本当に自由に欲望のままに振舞っていては、社会は成り立たないですよね。同じように、ロボットという自由にできる存在を人間がどう扱うのかも、人間を人間たらしめる倫理的・哲学的な問いが関わってきます。  久木田 そうですね。その際に、ロボットをどのようにデザインするのかも重要になってくると思います。倫理学の分野でよく議論になりますが、たとえば女性型ロボットの表象には、特定のステレオタイプが反映されやすい。つまり、女性のこういう振る舞いは好まれるといった社会的な思い込みが、そのまま設計の中に組み込まれてしまう。結果、既存の偏見が再生産されたり、むしろ強化されてしまう危険があります。  ロボットなどの研究開発現場では、これまで「なんとなく」で設計されてしまうことが少なくありませんでした。SiriやAlexaといった音声アシスタントは初期の頃、女性の声が基本で、性別を選べるようになっても、デフォルトは女性であることが多い。そこで、なぜこの形にしたのか、なぜ女性の声を選んだのかと疑問を持てるかが重要です。ロボットやAIなど、理工学系の開発者のほとんどは男性なので、無自覚なバイアスが反映されているところもあるでしょう。そこはこの先、改善されていくべきです。性別を問わず人間型ロボットを開発し、社会的な属性を持たせる時にはまず、制作側が特にネガティブな影響を持つステレオタイプに、自覚的に注意を払うことが求められます。  岩内 人工知能をめぐる第6章でも、そのことを指摘されていましたよね。あらゆるテクノロジーやサービスには、制作者の意図が反映されることを、制作側もユーザー側もきちんと自覚しておく。先ほど話したSNSと同じで、相手がどういう形で自分の欲望を刺激しようとしてきているのか。そういうメタの視線は誰もが持つべきで、それをもとにテクノロジーとの付き合い方を考えていく。  最初に話した信念対立のところで、久木田さんは「どっちつかずの書き方になった」とおっしゃっていました。でも私はこの本を読み、またお話をする中で、どっちつかず、言い換えれば、分からなさを保ったまま考え続ける姿勢こそが大事なのだと改めて思いました。確かにはっきり意見を述べないことで、批判されることもある。でも、ネガティブ・ケイパビリティという考え方があるように、曖昧さや分からなさを引き受けながら、問いに向かって思考を進めていく方が、安易にどちらかの意見に傾くよりも、ずっと誠実です。何より、これからテクノロジーが発展していき、その付き合い方を個人が考えていかなければならない時代においては、久木田さんが本書で貫く姿勢こそが大切になると思います。(おわり)  ★くきた・みなお=名古屋大学大学院情報学研究科准教授・情報哲学・技術哲学。共著に『ロボットからの倫理学入門』、共訳書にアンディ・クラーク『生まれながらのサイボーグ』など。一九七三年生。  ★いわうち・しょうたろう=豊橋技術科学大学准教授・哲学・現象学。著書に『新しい哲学の教科書』『〈普遍性〉をつくる哲学』『星になっても』など。一九八七年生。対談=久木田 水生×岩内 章太郎 <テクノロジーの発展、人間の変化> 久木田水生著『麦とTwitter』(共立出版)刊行を機に  久木田水生さん(名古屋大学准教授)が『麦とTwitter 情報技術がもたらすコミュニケーションの変容』(共立出版)を上梓した。インターネット、スマートフォン、ソーシャルメディア、人工知能、VR、ロボット――目まぐるしく変化する情報技術に対し、私たちはいかに向き合うべきか。本書の刊行を機に、久木田さんと岩内章太郎さん(豊橋技術科学大学准教授)に対談をお願いした。     (編集部)  岩内 非常に楽しく読ませていただいたというのが、最初にお伝えしたい感想になります。事前情報で本書が400頁ほどあると目にしていたので、実は少し構えていたんです。しかし、いざ読み始めると躓く箇所がなく、一気に頁が進みました。科学技術について書かれた本には、読むのに一苦労する難しいものから簡単すぎるものまでさまざまありますが、本書はどちらかに片寄ることのないまま、かなり広い読者層を想定している印象です。科学技術の専門用語から、ポストトゥルースやフェイクニュースなど、最近よく使われるようになった言葉や概念もひとつひとつ丁寧に説明される。文学や音楽からの引用も多く、あらゆる層への入口が準備された構成になっています。  久木田 ありがとうございます。自分の子どもが中学生になったこともあって、できれば本に多少は触れている中学生や高校生にも読んでほしいと思いながら執筆しました。特に読みやすさ、分かりやすさは意識していたので、そのように言っていただけて嬉しいです。当初は副題を「コミュニケーションの哲学と倫理学」にしようと考えていたのですが、技術哲学の話だけでは業界内の話に留まってしまう。思い切って哲学や倫理学を外し、「情報技術がもたらすコミュニケーションの変容」にしました。研究者向けというよりは、年齢や職業を問わず、読んだ方が学びや発見を得られる内容を目指したつもりです。  岩内 実際、この本が論じているのは今の副題の内容ですよね。インターネットや人工知能、ソーシャルメディアなどの情報技術の誕生や発展が、人間のコミュニケーションにいかなる影響を与えたのか。もしくは今後与えるのか。個別のテーマはもちろん面白いのですが、私が強く惹かれたのは、科学技術をめぐる久木田さんの信念対立の描き方です。  久木田さんはテクノロジーに対して、楽観的になりすぎても、悲観的になりすぎてもダメだという立場を取っている。第2章では、「本書において素朴な道具主義も技術決定論も採らない。テクノロジーがどのようなバイアスを持つのか、それがどのような人間の特性・脆弱性と相俟って有害な帰結をもたらすのかといったことに関心を払いながらテクノロジーについて考えていく」と述べられています。このモチーフは、エピローグでも「悲観と楽観(再び)」という見出しで繰り返される。それぞれに信念対立がある中でいかに合意形成をしていくのかは、自分の専門である現象学にも関わるところなので、久木田さんの論の展開方法が大変勉強になりました。  久木田 私は、テクノロジーに対する極端な楽観視も、極端な悲観視も危ういと思っています。どちらの言説にも、同意する部分と良くないと感じる部分がある。どんな技術にも正と負の両面があり、それに対する賛否は各々の価値観や環境に左右されます。だからこそ、新しい情報技術を実際に導入する時にはどちらの観点も取り入れた慎重な議論が重要になる。  とは言いつつ、インターネットやソーシャルメディアなどの情報技術に対して、私もかつては悲観的な意見を持っていました。テクノロジーの発展は、それによる利益よりも、人間にとって本当に大切なものを失わせるだろう。そういう懸念の方が強かったんですね。ですが、いろいろな先行研究を読んだり技術開発者の話を実際に聞くうちに、情報技術の発展は単純に良い/悪いで判断できないと考え直しました。おそらく本書には、私のどっちつかずの姿勢が表れていると思います。両方の立場から批判されるかもしれないけれど、それでもどちらかの立場に寄った議論を展開したくありませんでした。  岩内 久木田さんの筆致が巧いのは、どちらの意見にも完璧には同意しないけれど、次世代や技術開発に携わる人へ伝えたいこと、本当に考えるべき問題の焦点をはっきりさせているところです。技術に対し、なんとなくの印象で良し悪しを判断するのではなく、過去の経緯も含めてしっかりと向き合う。もっと丁寧に、正と負それぞれの事象を分析していく。これが本書に一貫する意識だと思います。ただ、今のお話によると、久木田さんは最初は悲観的な論にシンパシーを感じていた。そこからなぜ、今のようなお考えに変化していったのでしょうか。  久木田 アメリカの社会学者シェリー・タークルは、スマートフォンやソーシャルメディアの登場によって、対面の会話が減っている状況に警鐘を鳴らしている。本書では悲観主義の立場を代表する一人として言及しました。情報技術が人間関係やコミュニケーションに与える影響について考え始めた時に読んだのが、タークルの“Alone Together”(邦訳『つながっているのに孤独』)だったこともあり、当時の私には、テクノロジーの発展によるマイナスの側面が目についたのだと思います。  それが変わったのは、テクノロジーの発展をポジティブに捉える楽観主義の主張も知ったからです。オフラインとオンラインが融合した、新しい生活「オンライフ」を提唱するルチアーノ・フロリディ『第四の革命』や、技術と人間の関係について考察するアンディ・クラーク『生まれながらのサイボーグ』などを読むうちに、楽観論/悲観論どちらにも理があると思うようになっていきました。  そもそも、情報技術あるいは技術一般の発展により、コミュニケーションや社会の在り方などが正負の両面において変化するのは、珍しいことではありません。むしろ、人類史は常にそういう形で進んでいった。本書で言及したユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』では、農業革命は当時の人を幸せにしなかった「史上最大の詐欺」だと述べています。現代の文明や豊かさは間違いなく、農業が始まったからこそ築けました。でも、いくら後の世界が発展しても、農業革命直後に飢饉で苦しんだ人たちの慰めにはならないとハラリは言います。  未来の人からすると、今の我々の状況も近いのかもしれないと思います。何百年先かに、「あの時、インターネットや人工知能をはじめ情報技術の大きな革命が起きたことで、この世界は豊かになった」と言われている可能性はある。けれど、当事者である私たちは、現代の状況を手放しで喜ぶことはできないでしょう。上述のようなタークルの懸念のほかにも、偽情報、陰謀論、社会の分断、依存などの問題があり、人工知能をめぐっても多くの課題があります。テクノロジーの発展による影響の良し悪しは、現段階で判断することは難しいと、私は考えています。  岩内 本書を読むと、技術発展を問題視するのは現代に限った話ではないとよく分かります。たとえばコミュニケーションそのものを扱う第3章では、言語という新しい発明を我々の祖先がどのように受け入れていったのかが、複数の先行研究とともに紹介される。翻って、SNSが大きな影響力を持ち、インターネットや人工知能、ロボットなどがどんどん進化している今、進行形で起きている問題は50年後、100年後にどう見えるのか。そういう人類史的な視点が浮かび上がってくるのも、本書の面白いところです。  私の専門に引き寄せると、『精神現象学』を書いたヘーゲルは自由について歴史的なパースペクティブで考えています。人間が苦しんだり悩んだり、内面に閉じこもったりするのは、自由が展開する契機のひとつでしかない。ヘーゲルの哲学体系に則ると、個別具体的な場面で苦しんだり搾取されたりしている人も、自由が発展するための一つの契機として見なされます。この考え方自体は分かるけれど、時々すごく冷たく感じるんですね。対して久木田さんの筆致は、歴史的パースペクティブに目を開かせつつも冷たさがない。これはやはり、悲観的な論にも楽観的な論にもいい点悪い点を見出しているからこそだと思います。  岩内 個別的な話もできればと思うのですが、第5章「情報コモンズの悲劇」で論じられるサイバースペースにおける承認と依存は、今の社会を理解するうえで非常に重要な問題ですよね。私が担当している学生たちも、ソーシャルメディアのループから抜け出せないとよく言っている。勉強したいのに気づいたら2時間TikTokを見てしまうと悩んでいた学生に、「それならNetflixで映画を観たほうがいいのでは?」と尋ねたことがありました。すると、本人も強く同意するんですよ。なんなら、その時間が無意味だと誰よりも感じている。それでも、最低90分の時間を確保し、腰を据えて始めなければならない映画に対し、TikTokは何も考えず開けばいいから入り口が軽い。だから、結果的にはだらだらと見続けてしまうと話していました。  無論、すべての行動が生産的である必要はありません。本人が楽しいのであれば別にいい。私はショート動画は見ないけれど、家でお酒を2〜3時間飲むことはある。学生たちと私の違いは、彼ら彼女らがその時間を楽しんでおらず、むしろ「この循環から抜け出したい」と思っている点です。映画の方が有意義な時間の使い方だと本人自身が考えているのに、どうしてもより手軽な方へと流れてしまう。これは良い傾向とは言えない。  久木田 現代のコミュニケーションは、LINEをはじめとしたSNSを使用することが前提になっているので、スマホから距離を取りたくても難しいですよね。相手がいる以上、何時間も返信しないのもまた、プレッシャーになる。LINEの返信ついでにインターネットを見て、そのまま眺めてしまう気持ちはよく分かります。現状、多少の強制力はやはり必要なのでしょう。中高生ならたとえば「9時以降は連絡禁止」というルールが家や学校で設けられていることで、連絡しないことへのエクスキューズが可能になる。コミュニティ内でそうしたルール設定を自発的にできるようになると、また違ってくるかもしれません。  また、ソーシャルメディアは明確な意図をもって設計されていることに、意識的であることも重要だと思います。メタやX、YouTubeなどの企業は研究を重ね、人々の関心を自分たちのサービスに繫ぎとめる設計を考えている。自分が動画を「選んでいる」のではなく「見せられている」と知れば、サービスそのものに冷める可能性があります。あとは、お酒を飲む人全員がアルコール依存症になるわけではないように、ソーシャルメディアへの依存もサービスだけの問題とは言い切れない。個人的な特性やその人が置かれている状況、特に孤独や貧しさなどの要因もあわせて考える必要があります。  岩内 サイバースペース上の承認欲求に関しては、先ほどの情報技術の進化と重なる論点です。まず、多くの人に認められたいという欲求は、インターネットの登場によって生まれたわけではありません。承認を求める人間も孤独な人間も、少なくも近代以降、時代を問わず、ずっと存在していた。久木田さんは本書で、なぜ承認を求めるのか、承認欲求は悪いものなのか、意思決定だけの問題なのかを歴史を遡りつつ、整理していきます。SNS上の孤独というテーマにだけに絞ると、まるで問題がネット空間の中で新たに生まれたように見えてしまう。しかし正確には、もともと孤独を抱えていた人がSNSに接続したことで、今までとは違う形で孤独が表面化してきているんですね。人類史的に見ると、承認欲求や孤独の問題の核心は、SNSではなく人間側にあると考えられます。  久木田 近年、承認欲求や孤独感が高まっているように見えるのは、情報技術が原因なのか、それとも情報技術は問題への解決として発展したからなのか。これを考えるには、インターネット以後ではなく、それより前も含めたもっと大きな視点で見ていくべきです。特に孤独の問題は近代化の過程――産業や経済構造の変化、それに伴うコミュニティや家族の形の変容の中で進んでいった。情報技術は、その変化と並走するかたちで発展したものです。  アメリカの政治学者ロバート・パットナムは、20世紀後半における社会関係資本の減少の大きな原因の一つとして、テレビやビデオゲームの普及を挙げています。事実、それらのメディアが広がった時期と、地域コミュニティの結びつきが弱まった時期は重なっている。けれど、一概にテレビやゲームが原因で、孤独が加速したと断定はできません。社会構造の変化によって人々が孤立しやすくなり、孤独な時間を埋める手段としてテレビやゲームが広がったという側面もあるでしょう。現代のSNSも同様の面がある。核家族化や単身世帯の増加が進む現代において、ひとりの時間を充実させたり、寂しさを埋める手段として、SNSが普及しているという背景は見逃せません。テクノロジーの問題を考えるには、社会状況も考慮に入れることが重要です。  岩内 情報技術の発展だけが問題ではないというのは、私も感じます。「近代」とは、移動の自由が認められ、生き方や住む場所を自分で選べるようになった時代です。世界にはさまざまな宗教や文化、習俗があり、それらをどのように受け入れるか、あるいは距離を取るか。他者の自由を著しく侵害しない限り、生き方も住む場所も自分で決めていいというのが、近代の前提です。  その近代において、哲学ではハイデガーやサルトル、ヤスパースなど実存主義が出てきました。近代哲学では、自由と孤独の表象が結びついている。自由な主体としての人間が自律し、本来的な生き方をするには、世間的な価値観や常識からは距離を取る必要がある。一定の孤独を引き受けなければ、本当の自由には到達できないということですね。  さらにポストモダン以降になると、共通性より差異や多様性が前面に出てきます。自由を追求するほど、他者や共同性から離れることになり、結果的に孤立が深まりやすくなる。たとえば地域の自治会が煩わしくて、「ゴミ出しは個別に契約するのでゴミステーションは使わない」と言う人がいますよね。私も気持ちは分かります。地域の共同体や対面の関係は面倒なことが多い。  では、それらすべてを解体して自由になることが、本当に人間にとっていいことなのか。十年ほど前の私は、自由な個人が自発的に連帯し、新しい共同体を立ち上げていくイメージを抱いていました。けれど今は、人間はそれほど強い存在ではないと思っています。むしろ、ある程度の枠組みや外部からの手助けがないと、連帯や新しい共同体をつくることは難しい。  その意味で、テクノロジーが何を実現し得るのかだけでなく、人間がどう使うのかまで論じている本書は非常に示唆的です。第7章「コミュニケーションの未来」におけるアバターとアイデンティティの関係、350頁前後で言及される「対面神話」の議論は、自由と孤立というテーマとも重なります。  久木田 先ほど名前を挙げたタークルは、著書の“Reclaiming Conversation”(邦訳『一緒にいてもスマホ』)で、対面での会話の重要性を強調しています。身体性や非言語的なサインなど、対面的なコミュニケーションこそが信頼関係や他者への共感力、絆を深めるのだ、と。もっともだと思うのですが反面、ICTを介したコミュニケーションが対面の会話を完全に奪い、社会に壊滅的な影響を与えるかというと、そうはならないはずです。コロナ禍でZoomなどのビデオ通話は普及したけれど、多くの人は対面で会えるようになると、自然と直接会う形に戻っていきましたよね。  大多数の人にとっては、対面もオンラインもコミュニケーション手段のひとつに過ぎない。対面によるコミュニケーションが極端に失われると問題は生じると思いますが、ビデオ通話、ソーシャルメディア、電話、手紙など、複数のコミュニケーション手段が存在しているのは、今のところメリットが大きいと感じます。  岩内 第1章に「対面コミュニケーションという「無理ゲー」」という見出しがあるように、久木田さんは対面のしんどさも述べられています。人と直接会ってやり取りするのは情報量も多いし、確かに面倒なことが多い。ですが、この先、対面コミュニケーションがなくなるかと言われたらそうはならない。現に学生同士は、インスタの投稿を対面で見せ合って盛り上がっていますからね。  必要以上に対面にこだわる必要はないし、学生たちは学生たちでちゃんとルールや運用を考え、ツールを使い分けています。この前聞いた話によると、彼ら彼女らの中では、対面→電話→メール→LINE→インスタのDM→その他のアプリと、連絡方法の重要度が存在するそうです。また、学生たちとご飯に行くと、私が席にいる間はみんなスマホを見ないか、伏せて置いている。むしろ私たちの世代の方が、誰かと食事中でもスマホを確認したりします。  久木田 私が本書で引用した「対面神話」という言葉は、哲学者の呉羽真さんが使っているものです。情報技術を批判する際、タークルのように対面コミュニケーションを殊更に重視し、ICTを介したコミュニケーションをそれより劣ったものと考える傾向を呉羽さんは「対面神話」と呼んで批判している。対面を絶対視するような考え方は偏見で、メディアの影響について考えるなら、個別のテクノロジーの特性、利用者の属性、家庭環境や社会環境などを考慮する必要があると指摘しています。  また呉羽さんはコミュニケーションツールの選択それ自体がひとつのメタメッセージになると述べています。コストの大きい対面を選ぶのは、相手とのコミュニケーションを重要なものだと考えている意思表示になる。手軽な方ばかりを選んでいくと、人によっては「私とのコミュニケーションはそれくらいのものなのか」と受け止められかねない。ツールそのものにもメタメッセージが込められていると理解しながら、適切に使っていく必要があります。  岩内 一方で、対面でのやりとりが面倒を超えて苦痛になるのも困ります。私はいろんな世代と哲学対話をするのですが、特に大学生の感想として出てくるのが、「対面ではなく匿名のオンラインでやりたい」です。「その方が意見も言いやすいし、効率的に情報を収集できる」というのは、一面ではその通りなのかもしれない。でも、今の世の中ではまだ、対面で顔を合わせて言わなければならないことが多々ある。対面で告げなければならないことまでも心理的な障壁が低いチャンネルに移行されると、どこかで必ず問題が生じます。  一例として、私個人は、命に関わることは、命ある存在から直接告げられたいと思っています。ロボットやLINEで余命宣告を受けることには、どうしても抵抗を覚える。でも、これは現在の私の欲望です。この先、ロボットが生活のなかに深く入り込む世界になれば、それが自然だと思う世代が現れるかもしれない。今現在の欲望が未来永劫、形を変えずに続くことはあり得ないので、将来、ロボットと共生関係を結ぶことになったとして、人間の欲望はどのように変化するのかは気になります。  いま私がロボット工学や生物学の専門家と一緒にやっているプロジェクトの一つに、災害現場で消防士と協働する自律汎用型ヒューマノイドの開発があります。ロボットを道具としてではなく、一定の自由な裁量を持った同僚に近い存在として設計するというものです。利点もあるけれど、ロボットと共生関係を結ぶことによる人間の負担や変化も同時に考えなければならないでしょう。特に消防という命を左右する現場では、場合によっては〝死なない〟存在のロボットを犠牲にすることで、要救助者を救える状況が発生するかもしれない。その時に、ロボットと同僚関係を築いた消防士はどのように対応するべきなのか。おそらく、今とは違う倫理観や職業意識が求められます。  久木田 人間は、自分や動物に似たものに対して勝手に心や意図、欲求を読み込んでしまう。そのため何のルールもなければ、緊急事態に人命より同僚ロボットを大事にしてしまう可能性は否定できません。地雷除去用の小型ロボットのように、外見が人間らしくない機械であっても、共に働くうちに感情移入してしまうことはある。実際、戦地で地雷除去ロボットが壊れた時に、「こいつを助けてくれ」と言う兵士がいるという話も報告されています。  こういう心理を積極的に活用しようとする研究もあります。人間同士は、表情やジェスチャー、身体的なサインから相手の感情や行動を察知しますよね。ヒューマノイド研究の分野では、あえて意図があるかのようなジェスチャーや表情をロボットに与えることで、人間がロボットの次の行動を予測しやすくする設計が試みられています。  でも、これが進むとユーザー側の擬人化も感情移入も強くなって、いざという時に道具として扱えなくなるかもしれない。ロボットを優先し、人間よりも配慮を向けてしまうことは不正義だという立場も十分に理解できます。ロボットに愛着を抱くこと自体はよくても、ロボットがケアを受けるべきかは、倫理学者の中でも意見が割れている。まだまだ議論され尽くしていない問題ですが、おそらく災害現場など緊急時には、人間中心であることが法や制度の基準になるでしょう。  岩内 人間に危害を加えないという原則は最低限の防衛ラインとして設定されると思います。その前提が守られている限り、個人がロボットにどれだけ愛情やお金を注ぐかは、基本的には自由だと私は考えます。隣に飢えで苦しんでいる人がいるのに、自分の飼い犬に高いステーキを与えている人は全然いますよね。自分のリソースをどこに使うのかと法整備の話は、分けて考えた方がいい問題です。  久木田 仰る通りです。私も、他者の自由を侵害しない限りは、個人がロボットを大事に思うことまで非難しなくていいと考えている。人間は、同じ人間にも動物にも物にも、推しのアクリルスタンドにだって愛着を抱く。ロボットがそこに加わったからといって、特別視する必要はない。最近は、生成AIに感情移入する人もいるそうです。愛着のリソースを何に向けるかは、個人の自由として尊重されるべきで、本人が自分で選び、満足しているのであればよい。でも、「本当はこんなに時間や感情を割きたくないのに、やめられない」という本人の意思に反する状態であれば、SNSと同じく依存の問題です。そこは社会として目配りや対応が求められます。  岩内 同時に、警戒すべきは人間に近い姿かたちのロボットが出てきた場合、それを隷属状態に置いたり何でも言うことを聞く存在だと捉える人が一定数いるだろうということです。今でさえ、生成AIに対して強く出る人はいる。相手は自分の道具なのだという感覚や欲望をあまりに身体化しすぎて、現実の人間関係にまで持ち込む人が出てこないか。大半の人はそんなことにはならないはずですが、注視すべき事柄ではあります。  久木田 ロボットに対する態度が人間にも延長されるのではないか。ここは、今後非常に気にしておくべきですね。本当にリアルな、人間に近いロボットが登場した時、ロボットは人間の道具であるという感覚がどう変わっていくのか。ロボットでなくとも、VRのような技術が進化すると現実との区別がつかなくなる可能性だってあるわけです。そんなことにはならないという意見もあるけれど、どうなるかは分からない。  岩内 人間の多様な欲望は他者を害さない限り肯定されるべきだと私は考えますが、その一方で、ソクラテスの時代から哲学の中心には、よりよく生きるとは何かというテーマがある。その観点から考えると、たとえば久木田さんが本書で論じられていたセックスロボットという存在は、本当に人間にとってよいものなのか。ロボットは人間ではありません。道具のひとつなので、原理的には「何をしてもいい存在」とも言える。では、「何をしてもいい相手」に本当に「何をしてもいい」のか。自由が与えられたからといって、本当に自由に欲望のままに振舞っていては、社会は成り立たないですよね。同じように、ロボットという自由にできる存在を人間がどう扱うのかも、人間を人間たらしめる倫理的・哲学的な問いが関わってきます。  久木田 そうですね。その際に、ロボットをどのようにデザインするのかも重要になってくると思います。倫理学の分野でよく議論になりますが、たとえば女性型ロボットの表象には、特定のステレオタイプが反映されやすい。つまり、女性のこういう振る舞いは好まれるといった社会的な思い込みが、そのまま設計の中に組み込まれてしまう。結果、既存の偏見が再生産されたり、むしろ強化されてしまう危険があります。  ロボットなどの研究開発現場では、これまで「なんとなく」で設計されてしまうことが少なくありませんでした。SiriやAlexaといった音声アシスタントは初期の頃、女性の声が基本で、性別を選べるようになっても、デフォルトは女性であることが多い。そこで、なぜこの形にしたのか、なぜ女性の声を選んだのかと疑問を持てるかが重要です。ロボットやAIなど、理工学系の開発者のほとんどは男性なので、無自覚なバイアスが反映されているところもあるでしょう。そこはこの先、改善されていくべきです。性別を問わず人間型ロボットを開発し、社会的な属性を持たせる時にはまず、制作側が特にネガティブな影響を持つステレオタイプに、自覚的に注意を払うことが求められます。  岩内 人工知能をめぐる第6章でも、そのことを指摘されていましたよね。あらゆるテクノロジーやサービスには、制作者の意図が反映されることを、制作側もユーザー側もきちんと自覚しておく。先ほど話したSNSと同じで、相手がどういう形で自分の欲望を刺激しようとしてきているのか。そういうメタの視線は誰もが持つ

書籍

書籍名 麦とTwitter
ISBN13 9784320006232
ISBN10 4320006232