滅びゆく惑星で 第22回
増田俊也
小説と酒の愉しみ方
「ラストのどんでん返しが面白い」などと喧伝される小説は多い。最後の一行で世界がひっくり返る。張りめぐらせた伏線が一気に回収される。読み終えて思わず最初のページに戻ってしまう――帯にはそんな惹句が躍っている。だが、これは本当に小説の楽しみといえるのだろうか。
小説というのは、酒のようなものだと思う。酔いたいだけなら、「酒を飲む」などという回りくどいことをする必要はない。エチルアルコールを注射器で静脈に注入したほうが、よほど早いし、よほど効く。だが、そんなことをする者はいない。みな、色がついて、味がついて、香りのついた液体を、わざわざ居酒屋やバーまで足を運んで飲む。
なぜか。酔いという結果が欲しいのではないからだ。琥珀色の揺れるグラス、最初のひと口が喉を通るときの熱、隣客のざわめき、店主の無駄口、少しずつ回っていく頭。その全体を、時間ごと飲んでいるのである。アルコールという成分は、そのための口実にすぎない。
パイプや葉巻も同じことだ。ニコチンが欲しいだけなら、静脈に打てばいい。しかし愛煙家は、葉を選び、火を入れ、煙をゆっくりと吸い、また吐く。その一連の無駄きわまりない時間そのものを味わっている。
小説も、まったく同じである。プロットを追うことが小説なのではない。もし筋だけが欲しいなら、あらすじを三行読めば済む。犯人は誰で、二人は結ばれ、主人公は死ぬ。それで「内容」は手に入る。だがそれは、アルコールを静注するのと何ら変わらない。
小説の楽しみは、その場面場面を体感することにある。主人公が雨の町を歩くなら、その濡れた石畳の冷たさを一緒に踏む。恋に落ちる場面があるなら、その胸のざわめきを自分の胸で起こす。一文一文の呼吸、言葉の選ばれ方、情景のたちのぼり方――そこに身を浸していく時間こそが、小説を読むという行為の本体である。
どんでん返しばかりが評価される風潮を、私は少し危ういと思う。それは小説を、オチだけで値踏みすることにほかならない。オチのために全編が奉仕する小説は、読み終えた瞬間に用済みになる。種を明かされた手品を、もう一度見たいとは思わないのと同じだ。
本当にいい小説は、筋を知ったあとでこそ、また読みたくなる。結末を知りながら飲みなおす酒のように、何度でも同じ場面に戻り、同じ一行を舐めるように味わう。そういう再読に堪える作品だけが、おそらく長く残っていく。
静注では決して得られないあの無駄な時間の豊かさのなかにこそ、人が小説を読みつづける理由は、ずっと潜んでいるのである。(ますだ・としなり=小説家)
