2025/10/24号 4面

プロパガンダ

プロパガンダ ジャック・エリュール著 飯田 豊  インターネットを通じて人びとが熱狂し、ときに歯止めが効かずに暴走したり、陰謀論が蔓延したりする光景は、もはや日常の一部となっている。その背景を考察するさい、ギュスターヴ・ル・ボンが19世紀末に著した『群衆心理』がしばしば参照され、古典的名著として再評価されている。  これと同様に、フランスの思想家ジャック・エリュール(1912―94)が1962年に著した『プロパガンダ』も、SNSに広がる極論が中道を侵食し、社会の分断を加速させている現代日本において、切実な示唆を与える。ようやく今、本書の日本語版が刊行された意義は大きい。  本書の議論の出発点は、「プロパガンダ=悪」という自明の前提を、まず脇に置くことである。倫理的な評価を括弧に入れることで、エリュールはプロパガンダを――主著『技術社会』(1952年)を踏まえて――ひとつの技術として捉える。また、プロパガンダは必ずしも「噓」や「流言」の流布を意味しない。本書はプロパガンダを、人びとの思考を変えることではなく、アクションを引き起こす営みと位置づける。それは「正統とされるドクトリンへと人々を帰依させること」ではなく、「正しい実践を人々から引き出そうとする」ことにほかならない(36頁)。  本書の刊行当時、テレビこそがニューメディアだった(同世代であるマーシャル・マクルーハンのメディア論が世界を席巻するのは、この数年後のことだ)。エリュールによれば、映像発信の寡占化とテレビの普及が近代的プロパガンダを可能にした。ただし彼は、「プロパガンダがマスメディアの活用によって力を持つのは本当だが、この力を浪費してはならず、そのためには活性化された言葉の力を高めるように努めるべきだ」とも述べる(61頁)。プロパガンダが用いる言葉は「弾丸」のように一直線に浸透し、イメージを喚起し、偉大な雰囲気を形成しなければならない。そこに理性的検討の余地はほとんどない。プロパガンダは、人間が忘却する能力に依拠している。人びとは同時に複数の事実を比較検討できず、古いファクトは新しいファクトにすぐに上書きされる一方で、ファクトそれ自体を「証拠」や「真実」と同一視する強い信仰に取り憑かれている。「現代人は今現在の問題について考えておらず、感じているだけだ」(61頁)という診断は、ますます多くの情報が氾濫するSNS社会/情動社会にそのまま適用できる(ファクト信仰の持ち主がしばしば、ネットで「エビデンス厨」と揶揄される姿とも重なる)。  このように、マスメディアの技術特性を超えた洞察こそが、本書を古びさせない理由であろう。現在はテレビに代わって、プラットフォーム寡占や不透明なアルゴリズムが同様の役割を担っている。さらにエリュールは、プロパガンダが利用するのは高尚な理念ではなく、最も卑俗な思考様式だと断じる。「憎しみ、渇望、驕りは、愛や無私の心よりもプロパガンダの梃となりやすい」(50頁)のである。SNS上で怒りや憎悪が圧倒的な拡散力を持つ現実を思えば、この指摘も先見的である。  もっとも、現在との相違も無視できない。たとえばエリュールは、世論が人びとを「純粋な観客」に留め置くのに対して、プロパガンダのほうがはるかに強力だと論じた。しかしネット世論の存在感が高まっている現在、人びとが無垢な観客でいるとは限らない。世論とプロパガンダの関係自体が大きく変容しているのであり、本書が書かれた時代背景を考慮して読む必要がある。  そこで、本書と同時代のマス・コミュニケーション研究との交差を概観しておこう。エリュールは「科学的な研究手法を標榜するアメリカの社会心理学者たちは、プロパガンダの効力を過小評価する傾向にある」(ⅺ頁)と批判する。当時の主流学説を踏まえれば、これは妥当な指摘だった。実際、ポール・ラザースフェルドとエリフ・カッツが1955年に刊行した『パーソナル・インフルエンス』では「コミュニケーションの二段階の流れ」仮説が提示され、オピニオン・リーダーを介した水平的影響に注目することで、マスメディアの直接効果は限定的とみなされていた。ところが70年代以降、「アジェンダ設定」や「沈黙の螺旋」といった新しい強力効果論が台頭し、限定効果論は再考を迫られることになる。  エリュールはまた、パブリック・リレーションズやヒューマン・リレーションズも広義のプロパガンダであると喝破する。本書と同年にエベレット・ロジャーズが、効果研究の知見を踏まえて『イノベーションの普及』を刊行し、広告やマーケティングの世界でお馴染みの「普及理論」が確立する端緒となった。さらにカッツは後年、通常のテレビ放送の編成が変更され、特別枠で伝えられる大規模なイベントが、視聴者のあいだに特別な連帯の感情を媒介することに着目した。武田砂鉄が本書の解説エッセイのなかで、東京2020オリンピックと大阪・関西万博に言及しているのも、こうしたメディア・イベントが、エリュールにとっては「統合のプロパガンダ」にほかならないからだ。  そもそもエリュール自身、本書を「自分たちを条件付け支配しているプロパガンダ現象に対する自覚を深めるための試み」(ⅷ頁)と位置づけていた。その後、メディア・リテラシー教育の普及などに後押しされて、マスメディアに対する批判的眼差しは広く共有されるようになった。しかし、エリュールはなお、「プロパガンダのテクニックは平均的な人間の理性的能力と比べて大きく進化しているので、[…]プロパガンダの枠組みの外で人間を知的に教育することはほとんど不可能である」(150頁)という。ネットのアルゴリズムが日々われわれの関心を調整している現状を考えれば、この言葉を単なる技術決定論として片付けることはできない。メディア・リテラシーの機能不全が指摘されているなかで、エリュールの警告はますます現実味を帯びて響いてくる。(神田順子・河越宏一訳)(いいだ・ゆたか=立命館大学産業社会学部教授・メディア論・メディア技術史)  ★ジャック・エリュール(一九一二―一九九四)=フランスの社会学者にして、プロテスタント・改革派教会の信徒神学者。社会学と神学の双方の分野で多くの著作を残す。独自の福音信仰の立場から、社会の諸問題についての広範囲にわたる論評活動をおこなった。著書に『技術社会』など。

書籍

書籍名 プロパガンダ
ISBN13 9784393333914
ISBN10 4393333918