沖縄文学のざわめき
村上 陽子著
尾西 康充
テクストを読むことによって〈私〉が打ち砕かれ、いかに作り替えられていくか。文学の原点は、その体験にある。文学研究者は、身につけてきた技法や理論を駆使してテクストを読み解く。だが、どれほど鮮やかな分析を示し、周到に論文を書き上げようとも、〈私〉が作り替えられる体験に根差していなければ、その営みはバベルの塔になってしまうだろう。
文学とは、〈他者〉との関わりを通して、〈私〉が私自身と出会い直す契機をもたらすものである。そのことにあらためて気づかせてくれたのが、村上陽子氏の『沖縄文学のざわめき』にほかならない。村上氏は、沖縄文学を読む経験を、「私と〈他なる生〉がかきまぜられるとき、私は私のままではいられず、後戻りできないかたちで別の私へと踏み出すほかないだろう」と記す。これこそ、昨今の文学研究が、ともすれば置き去りにしてきたものではないだろうか。
では、〈他なる生〉とは何を指すのか。村上氏によれば、一九八〇年代以降の沖縄文学では、それぞれ異なる形で疎外され、忘却され、その声を聞き取られてこなかった人びとの生が、〈他なる生〉として文学作品のなかに呼び込まれた。米兵や慰安婦、朝鮮人軍夫、台湾からの出稼ぎ労働者、ハンセン病患者、「狂者」と呼ばれた人びと――そうした人びとの「外部化されていた体験」が、標準的な日本語ではなく、「島々の言葉の響きや意味を取り込み、日本語それ自体を攪乱するような文体」によって書きとめられていったのである。
しかし、〈他なる生〉の声を文学のうちに響かせることは、同時に、その声を誰に、どこへ向けて届けるのかという問いを呼び起こす。本書は、「言葉にしがたいものに向き合い、表現言語としての日本語をきしませ、ゆるがし、ともすれば解体しながら書かれてきた沖縄文学は、いったいどこに向けて、そして誰に向けて書かれているのだろうか」という根本的な問いを投げかける。
村上氏が着目する作家の一人が、大江健三郎である。『ヒロシマ・ノート』の連載を終えた大江は、在沖被爆者の存在を知る。沖縄における「広島なるもの」の「未了性」――差別的・植民地的状況におかれた沖縄では、米軍基地に核兵器が配備され、再び核が使用される危険にさらされているという事実を、大江は目の当たりにする。そのとき大江は、個々の「日本人」がみずからの加害者性を認めるだけでは、沖縄との関係を変えることにはならないと感じた。
詩人の新川明に「きみはなんのために沖縄へ来るのか」と拒絶されたことを契機として、大江は、沖縄が日本に属するのではなく、日本が沖縄に属する地図を構想する。それは、「広島なるもの」を潜在的に生きる沖縄が、「核時代の今日を生きる犠牲と差別の総量」によって日本を囲い込むという地図である。
村上氏は、この地図を前にして、〝日本人〟が沖縄の人びとと共に立つとき、核を峻拒する声を上げる〝新たな日本人〟へと変わっていけるかもしれない、と訴える。〈核〉問題との対峙を通じて、大江の内部で〈私〉が揺らぎ、その主体が作り替えられていく思想的格闘を説得的に描き出し得たのは、ヒロシマとオキナワを研究テーマとしてきた村上氏ならではの慧眼であろう。
大江のこの問い――「このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」を引き受ける村上氏の問題意識は、海洋博閉会後の爪痕を描いた大城立裕『華々しき宴のあとに』の読解にも通底する。本土から訪れる観光客によって沖縄が消費され、地域が急速な変容を強いられていく。こうした状況を描きながらも、このテクストには「沖縄を変えるのではなく自らを変えようとするヤマトンチュが生まれ出ることに期待がかけられている」と、村上氏は指摘するのである。
本書でとりわけ重要なのは、目取真俊の作品をめぐる読解であろう。村上氏は、テクストの細部を丹念に読み解くことによって、暴力の手前で踏みとどまろうとする声を聞き分け、暴力によらない抵抗の回路を開こうとするのである。
『面影と連れて』では、成長の遅れた「うち」が、村のスナックで働くなかで、建設作業員の「あの人」と出会う。実は「あの人」は、海洋博の開会式に合わせて来沖した皇太子夫妻への襲撃事件に関わり、警察に追われていた。「うち」はスナックで「あの人」を待つ間に、村の男たちから暴行を受ける。その身体から抜け出した魂は、ガジュマルの枝にぶら下がる「あの人」の縊死体と出会う。
村上氏は、縊死した「あの人」の身体を、復讐によって傷を乗り越えようとする行為を踏みとどまらせるものとして読む。すなわち、「虐げられ、傷つけられた死者が復讐のために暴力を行使する主体として立ち上がってくることはない」。無論、これは、死者たちを虐げ、傷つけた暴力そのものを容認することではない。その暴力に新たな暴力で応じることを拒むのである。村上氏は、「死者たちは自らの傷をさらし、血を流しながら暴力の手前で踏みとどまっている」と指摘する。
『眼の奥の森』では、戦時下の沖縄で十七歳の少女・小夜子が四人の米兵から暴行を受ける。その後、彼女に思いを寄せる盛治は、さらに別の女性を襲おうとした米兵に銛で襲いかかる。しかし、その行動には、自分を「薄馬鹿」として蔑んできた村の男たちの上位に「相手を刺し貫く〈強い男〉としての自分」を置こうとする欲望が垣間見られる。一方、「ふぐりを抜かれた犬ころ」として貶められた村の男たちは、「アメリカーにはさせて、我達にはさせんのか」と叫びながら、事件後「狂者」となって裸で走り回る小夜子に暴力を振るう。
村上氏は、「〈強い男〉を肯定する男性主義的な価値観は、性暴力を受けた被害者をおとしめ、排斥する風潮を作り出し、女性たちも小夜子をさげすむ噂を広めることに加担していく」と論じる。
では、暴力ではなく、何が求められるのか。村上氏は、小夜子の精神状態が比較的安定していた時期にミシンで縫った洋服に着目し、「性暴力に対する抵抗を、銛の一撃ではなく、針によってかたちづくりたい」と記す。そして、「沖縄で暮らしつづける日々のなかで、出来事の記憶の針を刺していきたい」と述べ、それが「私にとっての、〈小夜子〉たちに連なるということ」なのだと結論するのである。
本書で示される数々の読みは、終章で明らかにされているように、村上氏自身が沖縄に暮らし、沖縄文学を読み、生活に根差した切実な経験も踏まえながら、〈他なる生〉と出会いつづけてきた歩みに支えられている。それらの出会いによって、村上氏の内部に〈新たな私〉が生み出されてきた。本書の論考は、その経験の所産にほかならないのである。そして読者もまた、本書を読むことで、自らがどのような〝日本人〟であり得るのかを問い直すことになるだろう。(おにし・やすみつ=三重大学教授・日本近代文学)
★むらかみ・ようこ=一九八一年生。沖縄国際大学教授・沖縄文学・日本近現代文学。著書に『出来事の残響 原爆文学と沖縄文学』など。
書籍
| 書籍名 | 沖縄文学のざわめき |
| ISBN13 | 9784787292865 |
| ISBN10 | 4787292862 |
