評伝 田辺元
藤田 正勝著
竹花 洋佑
待望の評伝である。いわゆる「京都学派」の第二の哲学者として、西田幾多郎と双璧をなす田辺元の初の評伝である。著者は西田をはじめとした日本哲学の研究者として広くその名が知られた藤田正勝氏。氏は西田についてもすでに優れた評伝(『人間 西田幾多郎――未完の哲学』、岩波書店、2020年)を公にしている。
この評伝の最大の特徴は、難解で知られる西田や田辺の哲学を平易な言葉で的確に捉え返し、それを彼らの人生に埋め込まれたものとして提示するというその鮮やかな手法にある。もちろん、哲学は普遍的な価値をもつ。しかし、哲学もある種の作品として哲学者の生きることへの構えが自然と滲み出るものである。そして、そのようなものとしてその哲学を理解することによってその普遍的価値への理解がさらに深まることがある。そうした循環をこの評伝は私たちに改めて気づかせてくれる。人生のほとんど全てを哲学に捧げたと言ってよい田辺の場合は特にそうである。社会や国家のあり方を論じた「種の論理」は田辺の身近で起きた滝川事件が大きな動機の一つとなっているし、親鸞の他力の立場への共感の中で語られる「懺悔道としての哲学」は敗戦直前の閉塞状況とそこでの田辺の思想的行き詰まりに端を発している。また、最晩年に提唱された「死の哲学」は妻の死後の田辺の孤独と野上弥生子との交流、そして核がもたらす死の時代という時代認識に根ざしている。
「はじめに」で著者はこの評伝の執筆動機を、「近年、田辺哲学をめぐるすぐれた研究書が多く出されるようになったにもかかわらず、逆に人間・田辺の大きな魅力がその影に隠れてしまっているように感じた」(2頁)ためと語っている。確かに、「人間・田辺」についてはこれまで道徳的に潔癖で弟子たちに厳格であるというイメージが先行してきていたように思われる。場合によっては、西田の〝深さ〟や〝広さ〟に対して田辺の狭量さがほのめかされるような仕方で語られたりすることもある。竹田篤司『物語「京都学派」』(中公叢書、2001年)や『田辺元・野上弥生子往復書簡』(岩波書店、2002年)などによってそうした田辺像は是正されてきたが、この評伝によってはじめてその人となりの多面的で魅力に溢れたあり方が田辺の全生涯にわたって提示されることになったと言える。
田辺が教え子に対して厳しかったことは確かである。しかし、著者は同時に、田辺が弟子たちから敬愛の対象であり続けたことを強調する。ある弟子は田辺を「精神的恋人」とまで述べていることを著者は紹介している。その理由を、学生たちの問いを自分自身の問いとして引き受け、彼らを真理を探求する同志として平等に扱った田辺の姿勢に著者は求めている。また、学友の目には、田辺は単に道徳の人ではなく、短歌を書き、詩を愛するセンチメンタリストでありロマンチストとして映ったエピソードも紹介されている。時に周りに対して激昂し癇癪を起こす激情の人でもあったが、それでも田辺から人が離れていくということはなかったのであろう。弟子たちは山深い北軽井沢の山荘に住む田辺にせっせと物を届けているし、妻の死後、野上弥生子は田辺の良き話し相手となっている。
そしてこの評伝の最大の魅力は、これまでほとんど語られることのなかった家族から見た田辺が紹介されている点である。田辺の妻・ちよの妹である竹内きみが田辺について語った原稿が附録としてこの評伝には収められている。田辺は京都時代、名所旧跡を訪れたことがなかったという逸話が有名であるが、きみの証言によれば、田辺は義妹を連れて京都観光に行っている。また、着るものにこだわりのある洒落た人であり、食べ物にもうるさかったようである。最中などの甘いものには目がなく、また甘鯛や鮎などの魚が好物であったらしい。漬物は「かたきの様に」嫌ったとのことである。
「人間・田辺」の魅力を描き出すことに主眼が置かれてはいるものの、この書は同時に田辺哲学の入門書でもある。読者はこの評伝を通して田辺の思索の歩みがどのようなものであったのか、その全体像をつかむことができるだろう。また評伝というこの書の性格上立ち入った記述はなされていないものの、『善の研究』直後の西田と最初期の田辺の思想とが相互影響関係にあったことや、戦後の象徴主義への傾倒と若い時期の田辺の短歌への関心の関わりなど、今後の田辺研究にとって大きな指針となる論点も含まれていることもこの書の優れた点である。(たけはな・ようすけ=福岡大学准教授・哲学・日本哲学)
★ふじた・まさかつ=京都大学名誉教授・哲学・思想史。著書に『『善の研究』の百年』『西田幾多郎の思索世界』『西田幾多郎』『はじめての哲学』『日本哲学入門』、編著に『日本近代思想を学ぶ人のために』など。一九四九年生。
書籍
| 書籍名 | 評伝 田辺元 |
| ISBN13 | 9784814006168 |
| ISBN10 | 4814006160 |
