パレスチナ/イスラエルを読み解く
錦田 愛子著
鈴木 啓之
中東を扱う単著としては、近年稀に見る大冊である。一五の章と一三のコラムで構成される本書の大部分が、現代史を扱っている。著者の専門性が遺憾なく発揮され、特に中東での戦争の拡大を扱った最終章「戦争の拡大と中東地域秩序の再編」は圧巻である。二〇二三年一〇月七日からの情勢を、ほぼ同時代的に論じていくため、迫力のある筆致が印象深い。刊行直前まで筆を入れていた痕跡が随所に見られ、将来の見通しについても踏み込んだ議論が展開される。
概説書ではなく、しかし研究書でもない、その中間を目指して本書に取り組んだと著者は述べる。その作業の出発点には、大学の講義録があるという。そのためもあるだろう、各章には著者による世界各地での実体験が書き込まれている。パレスチナ問題が、現代の紛争であることが、こうした著述によって印象づけられる。また、「概説書などでは事実や政治的意見が多く述べられるものの、その根拠が必ずしも明示されない場合も多い。厳しい論調で書かれた内容が、筆者個人の意見なのか、それとも多くの論者により指摘されてきた事実なのか、区別がつかないことも多い」(五ページ)と指摘し、著者は出典の提示に力を入れる。最終章では二〇〇を超える脚注が付され、本書が専門書の名にふさわしいものであることが印象づけられる。
パレスチナの通史では、藤田進『蘇るパレスチナ』(東京大学出版会、一九八九年)、奈良本英佑『パレスチナの歴史』(明石書店、二〇〇五年)、臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』(講談社、二〇一三年)などが、これまで日本の書き手によって発表されてきた。ほかにもイラン・パペ『パレスチナの民族浄化』(田浪亜央江・早尾貴紀訳、法政大学出版局、二〇一七年)、ラシード・ハーリディー『パレスチナ戦争』(鈴木啓之・山本健介・金城美幸訳、法政大学出版局、二〇二三年)を始めとして、訳書も多い。
いずれも一九四八年以前のパレスチナでの人びとの生活を描きつつ、民族国家樹立を目指すシオニズムの思想に導かれたユダヤ人がどのようにパレスチナに入植したのか、そしてイギリス(または英仏)による中東支配が後のイスラエル建国をどのように支えたのかといった出来事から記述を始める。また、植民地主義、民族浄化、宣戦布告など、通史を読み解くフレーズが提示されることも多い。
過去の書籍と比較した場合、本書の際立った特長は、現代事情への手厚い記述である。特に第一三章「トランプ政権の衝撃」からの三つの章では、同時代的な国際報道が数多く参照される。現代事情に関心を抱く読者にとっては、どのような情報源を利用すれば良いのかという道標にもなろう。「できる限り明確にエビデンスを提示することに努めた」と自負する著者の面目躍如という印象を受ける。
通史を描く際に、フレーズを設定していない点にも注目したい。通史を扱ったこれまでの書籍では、それぞれに特徴的なフレーズが示されてきた。パペの著作であれば「民族浄化」、ハーリディーであれば「宣戦布告」がこれに該当する。決して短くはない一〇〇年の歴史を整理するための工夫である。もちろん、小冊でこうしたフレーズに頼り過ぎれば、歴史の過度な抽象化を招きかねない。一方で、叙述ばかりが続く大冊は、読者にとって苦痛である。本書は大冊でありながら、フレーズで通史を整えず、出来事についての記述を重ねていくスタイルを採用している。大学のテキストとしての使用を想定し、各章の完成度を高めた結果だろう。
著者は流布する誤った「イメージ」にも、本書で果敢に挑んでいる。イスラエル政府とパレスチナ人が結んだオスロ合意(一九九三年)に対する三つの「思い込み」を論じる箇所(一九四~一九七ページ)は好例である。著者が指摘する通り、オスロ合意はパレスチナ国家樹立の約束ではなく、イスラエル側の当事者であるイツハク・ラビンは「平和の人」と称揚できるような人物ではない。また、イスラエル政府とパレスチナ人が同じ目標を共有していたわけでもない。こうした「思い込み」は、実際のところ具体的な書き手や媒体を得て、日本国内に根強く残っている。著者が「イメージ」と柔らかく表現し、具体的な書き手や媒体を指摘していないのは、鋭い筆致が光る本書のなかでの数少ない容赦だろうか。
さて、最後に書評という場に威を借りて、少しばかりの批評を加えることは許されよう。多くの意義や優れた性格を持つ本書だが、大冊でありながら索引が付されていない点は課題である。前半の各章では、かなり大胆に現代事情やその後の展開にも言及がある。その結果、後半の章で登場する人名や出来事が先取りされる箇所が目立つ。重要なキーワードを「一通り学べる」と自負する本書だからこそ、索引が設けられていない点がことさら悔やまれる。
関連して、章によって記述の濃淡が認められる点が評者には気になった。後半の現代事情を扱う章での記述が手厚いだけに、前半の一九世紀末から二〇世紀始めにかけての歴史を扱う章の淡泊さが際立つ。簡潔に要点を押さえた記述にまぎれて、中東史の予備知識が求められる文章が散見される。
その最たる例が、イギリスの「三枚舌外交」――最近の高校世界史では、「秘密外交」または「戦時外交」と言い直されている――を示す箇所である。二七~二八ページにかけて、著者はサイクス・ピコ協定、バルフォア宣言、フサイン=マクマホン往復書簡に触れる。ここでは年号の提示がなく、また結ばれた順番についても言及がない。もし序章に掲げたとおり「予備知識がまったくなくても読み進められるよう」構成するのであれば、イギリスの秘密外交を第一次世界大戦の戦局と関連づけ、フサイン=マクマホン往復書簡(一九一五年)、サイクス・ピコ協定(一九一六年)、バルフォア宣言(一九一七年)の成立背景を示す丁寧な記述が望ましいだろう。(すずき・ひろゆき=東京大学特任准教授・中東地域研究)
★にしきだ・あいこ=慶應義塾大学教授・パレスチナ・イスラエルを中心とする中東現代政治および移民/難民研究。著書に『ディアスポラのパレスチナ人』など
書籍
| 書籍名 | パレスチナ/イスラエルを読み解く |
| ISBN13 | 9784867221266 |
| ISBN10 | 4867221260 |
