ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 416
一九六〇年代以降のロッセリーニ
JD ヌーヴェルヴァーグと同時代には、ロッセリーニもいました。しかし、彼は映画に見切りをつけて、テレビを〈発明〉しようとしていました。テレビを通じて、彼が目指していた「啓蒙映画」が真に実現できると考えたのです。その意味において、ロッセリーニが本当に面白いのは、六〇年代以降なのです。つまり『ルイ14世による権力奪取』以降であり、彼の映画を単純にネオレアリズモと結びつけるのは誤りです。そうした見方には、ロッセリーニという作家が、映画つまり映像と音の芸術に対して、真に貢献した仕事が抜けてしまっています。
いずれにせよ映画史というものは一筋縄に行くものではありません。映画史の本で羅列的に説明されているものでもなければ、アカデミックな人々が信じ込んでいるようなものでもない。私の講義、つまりシネクラブに来ればよくわかると思いますが、私は映画を体系づけて説明することはありません。そうした説明は、鼻持ちならないものであり、したくないのです。「私はこうした映画を見た。あなたよりも多くの映画を知っている。あなたよりも映画をよく理解している」などなど。自分がどれだけ優れているかを示すスノッブな態度だからです。それは真に映画を見ることとは関わりがないのです。映画を見ることとは、あくまでも感じることでなければいけない。ゴダールやデュラスの映画を見ることは、感性の問題に関わってきます。映画の作りというものは、非常に単純です。映像があって音がある。それだけなのです。映像が音に同期することもあれば、映像とは全く異なる音が聞こえてくることもある。そんなふうにして映画の空間に、視覚以外の奥行きが生み出されます。当然ながら視覚的な問題もあります。映像は、水平線、垂直線、奥行き線の三次元空間で構成されます。その空間を生み出す長方形のスクリーンを、いかにして活用するかも映画作家の手腕によります。そして映像をモンタージュでどう繫げていくか、もしくは断絶を生み出すかどうか。それらは映画作家の感性によるのです。そうした映像と音の組み合わせは、必ずしも凝ったものがいいわけではありません。デュラスの映画は……私の本当に好きな映画ではありませんが……本当に単純な作りです。映画の作りとしては単純なのです。誰も彼女と同じことをしようとは思わないくらい単純です。そこには古典的な意味での映画の演出が欠けているからです。しかし、デュラスという偉大な作家から溢れ出る自尊心のおかげで、全体が見事に作り上げられている……。彼女の映画には、デュラスという文筆家の存在が直接に感じられるのです。それは特殊な例ですが、古典的な映画を作る人々、ロッセリーニであってもトリュフォーであっても、彼らの映画には映画作家の存在が感じられます。さらに言うならば、そうした映画を作る人々の映画が、美術館でしか上映されないスノッブな映画と比べて、劣っているわけではありません。反対に、映画を先へ先へと進めている人たちもいます。コッポラ、マイケル・マン、アルベルト・セラ、もしかするとアルノー・デプレシャンなど、わざわざ奇を衒ったことをせずとも、映画の新たな作劇法を生み出している。コッポラなどはとてもいい例です。彼は、その後のアメリカ映画の原型となる映画を、時代を跨ぎながら作り続けている。それゆえに、彼の映画の真価はあまりよく理解されないのですが……。いずれにせよ、それらすべてのことを含めて、映画作家の感性の問題と関わってくるのです。映画を見る方も作る方も、感性が問題となります。
HK そうした考えのもとで、作家主義を考え続けているわけですね。つまり、単なる技術的な問題に還元できないものがある。
JD その通りです。ただ、カメラマンを作家のようにして評価することに反対しているわけでもありません。彼らの仕事を回顧上映のようにして見ることで、新たな発見があるかもしれない。映像を見て、画家の筆跡に目が奪われるようにして、撮影の軌跡に感動するかもしれません。しかし、それはあくまでも技術的なものです。作家主義の観点からは、それ以上の発見はあまりないはずです。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
