2026/06/05号 8面

「死んだほうがいい」が問いかけるもの

渡邉琢インタビュー『「死んだほうがいい」が問いかけるもの』(岩波書店)刊行を機に
渡邉 琢インタビュー <苦しみが贖えなくても、人は生きる> 『「死んだほうがいい」が問いかけるもの』(岩波書店)刊行を機に  日本自立生活センターの渡邉琢氏が『「死んだほうがいい」が問いかけるもの 安楽死をめぐる言葉をたどる』(岩波書店)を上梓した。自らを含めて誰かの死を望む思いの背後に何があるのか、文学やエッセイ、トラウマ論、実際に起きた障害者殺人事件から丁寧に読み解く一冊だ。渡邉氏にお話を伺った。(編集部)  ――タイトルの一部となっている「死んだほうがいい」という言葉には、自らの身体について自死を願うことと、他人の存在を死へと断定することの二つの意味が重ね合わされています。両者はどのように重なっているのでしょうか。  渡邉 「死んだほうがいい」と一口に言っても、そこには状況ごとにいろんな強度がありますよね。日常では軽い調子で「あんなになるんだったら死んだほうがマシだよ」「延命措置はせんでもいいからな」などと、割と気軽に口に上ります。しかし、実際のところ、人はなんだかんだで、生きる。思っていたのと違う状態になったとしても、それなりに人は生きていきます。「老いる前に死にたい」と語ったとしても、実行する人はめったにいないわけです。  他方で、すごく思い詰めて「死んだほうがいい」と語る人もいます。本人が身体的な苦しみを持続的に味わっていたり、自分の存在が他人の迷惑になっていると思っている場合があります。また、そうした方々の身近にいる人が身体的、精神的にきつくなり、そのような思いを抱く場合もあります。それらの語りや思いの大きな要因として、障害や要介護の状態があります。この意味でタイトルの二つの意味は重なっているのだと思います。  そんなとき、それぞれが、「私は/この人は、いないほうがいいのでは」という思いに駆られたりします。けれども、介護の時間というのはそんな時間ばかりではない。笑いや快適さのあるポジティブな時間もやはり流れています。そしてまた、制度や第三者の支援が増えればそうしたポジティブな時間も増えていきます。そうした両面を私は本書で伝えたかったのだと思います。  ――本書では、障害や病に限らず、「所属感の減弱」や「負担感の知覚」が高まると、安楽死含めて希死念慮が強くなるという自殺学の知見が紹介されています。  渡邉 そうですね。「所属感の減弱」の問題もとても重要です。病や障害に限らず、国籍問題や学校・友人関係・家族の中で、人は自分の居場所を見失うと、「自分はこの世にいない方がいいのではないか」と感じるようになってきます。世間は安楽死を、病や障害にのみ結び付けて語りがちなのですが、それだけに回収されないと思います。安楽死の願いの背景には、病や障害以外の要因がある場合も多く、そこは見逃すべきではありません。  ――1章には印象的な対比があります。ALS患者の岡部さんは、訪問介護事務所の若い職員たちのことを思って「今死ぬのは困ったな」と感じ、生きる方へと心の天秤を傾けました。他方、幼少時より難病の治療に耐えてきたくらんけさんは、親や医療者の期待に応えるために人形役を演じ、やがて死を望むに至ります。ここに見えるのは、人間関係は人を生の方にも死の方にも誘いうる両義性を持っているということです。  渡邉 それは、以前から考えていた対比です。2011年に出版した『介助者たちは、どう生きていくのか』(生活書院)で、社会学者の見田宗介を引用しました。「他者は第一に、人間にとって、生きるということの意味の感覚と、あらゆる歓びと感動の源泉である。〔略〕他者は第二に、人間にとって生きるということの不幸と制約の、ほとんどの形態の源泉である」(『社会学入門』)。昔からこの両義性は私の関心事でした。  ――第一に歓びの源泉で、第二に不幸の源泉であるというのが興味深いですね。  渡邉 乳幼児の成育過程を見るとそのことを強く思います。その子たちには生きる力、生きさせてもらう力があると思います。その後、うまくいかないと人間関係が不幸の源泉になっていく度合いが高まる気がします。介護現場は、よく「介護の優しさ」などと語られますが、実際には「不幸の源泉」としての人間関係の歴史も背負っています。介護者は、不幸の源泉としての他者の肩代わりをせざるをえないこともあります。それを単なるカスタマーハラスメントとして片づけては、人間の思いの複雑さが見えてくるわけもありません。  ――2章では、介護には「ドロドロとした情念」があると言われます。究極的に言うと、介護や人間関係に伴う生の否定性は、生の肯定性によって贖うことはできるのでしょうか。  渡邉 フロイトのいう「タナトス(死の欲動)」を持ち出すまでもなく、端的にはできない、と答えてもいいと思います。少なくとも意志の力や正論(生論?)の説得では無理だと思います。だから、白か黒かではなく、グレーの部分を持つこと、そして、いかに距離やゆとり、幅といったものを持てるかどうかが大事だと思います。肯定性や否定性において、一方が一方をねじ伏せようとすると、余計にこじれてしまうと私は思います。  たとえば、誰かのことが嫌になったら、やりこめようとするのではなく、できるだけ距離や時間を置く。そういった作業が必要です。もちろん、一分一秒でも耐えられない、すぐ結論を出したい、という人たちもいるので一筋縄ではいかないのですが、生死の二項対立ではなく第三項を作るのが大切だと私は考えています。  ――自分の死を願うくらんけさんのような人たちは、どのような形でグレーの部分を持つことができるでしょうか。  渡邉 強い結論をもたれている場合、難しい気もします。しかし、彼女も、安楽死(医師自殺幇助)決行に際して、直前で手を痛いほどに握りしめる父の存在が歯止めになってそこから引き返しました。彼女ですら、「自分のいのちは、自分のものでない」と語っているのです。  ――くらんけさんは、「わがままを通すのは良くないと思った」と記しつつ、死の権利は「単なるわがままではない」とも述べています。  渡邉 誰であれ一直線に死に向かうのではなく、他者との関係で生死の間を揺れ動くグレーの部分を抱えています。SNSなどでは、死に至る結論にばかり焦点が絞られてしまいがちですが。  ――渡邉さんは、人間が死のうとする意志よりも、生に固執してしまうような力や傾向性を信じている、あるいはそれを知っているように見えます。どうしてそのようにお思いになるのでしょうか。  渡邉 どうしてでしょうね……。私が小さい頃、障害者は今よりずっと世間から隠された存在でした。障害者運動に関わるようになった25年前も、まだ世間からの強い差別がありました。ですが、この社会で生きようとする彼女、彼らからとても生々しく、生き生きした人間性を感じました。逆に、私が当時所属していた大学の哲学科の人たちの会話からは、生の真実をあまり感じませんでした。障害者運動において、そうした生のリアリティに触れたのは大きいと思います。  酒を飲むときの豪快さにしても、冗談で笑いあう声にしても、感情的な怒りにしても、そしてごまかしてウソをいう仕草も、真正で率直な感情を感じました。すごくあけすけに語ることができる人たちでした。当時はお風呂や着替えも十分にできなかったから、人間臭もけっこう強かったと思います。その生々しさが、文献ばかり追っていたアカデミズムからの決別に繫がったのだと思います。  ――5章ではALS嘱託殺人事件が議論されます。ALS患者を殺害した大久保愉一被告が「死に魅入られてい」たと渡邉さんは述べ、「なぜ生を重く見られないのか」と問いかけます。しかし仮に、大久保から逆に「むしろなぜ生は重く見られるべきなのか」と反問されたとするなら、どうお答えになりますか。  渡邉 「生は重く見られるべき」というのは価値判断ですよね。べき論だと、どうしても対立的になります。その一方で、シンプルに、「生を重く見られない」というのは事実判断で、その背景を考察し、理解するということも大事だと思います。  話は逸れますが、横道誠さんが『優生思想・反出生主義を支持する障害者たち』(すぷりんととの共著・国書刊行会)を出版しました。発達障害当事者の方へのインタビューなのですが、彼らの言葉は優生思想と反出生主義に彩られているようなのです。生を軽くしか見られないというのは、自分の生きづらさのなかから生じた考えであり、だからそもそも人間なんて生まれてこない方がいい、というわけです。そのように思っている人に、「人間は大事だ」とヒューマニズムを語っても、全く響かないですよね。  ――6章では植松聖死刑囚による相模原障害者殺傷事件について語られます。植松は、障害者殺害の選別に、意思疎通ができるかどうかという基準を掲げました。私たちは、子どもが意思を表明できるようになったら喜びます。しかし、意思疎通能力の芽生えを寿ぐことは、植松の論理に通じてしまうようにも思われます。この喜びを肯定したうえで、植松を否定するためにはどうすればいいのでしょうか。  渡邉 言葉を話すことや、意思疎通をとることは、人間性にとって客観的で唯一の判断基準にはなりません。それぞれの人に応じて、できるようになることも様々です。成育過程もそれぞれ様々だし、老化過程ももちろんさまざまです。なにかができるようになることは、もちろんうれしいことだし、喜んでいいと思います。また、それができなくなることは悲しいことだと思います。自力でトイレにいけるようになったら喜んでいいですし、それができなくなったら悲しいとも思います。でもそれができないからといって、生を否定することはありません。  人の意思疎通は、言葉によるものに限らず、表情や声の響き、身振り手振りなど非言語のものにも大きく依存しています。多弁すぎて何を言っているのか、わからない人もいます。おべっかだけしゃべり、本心を見せない人も大勢います。人間関係は思いが伝わったり伝わらなかったりを繰り返しながら、時間が進んでいます。コミュニケーションのあり方は多様なのに、結局、植松は、彼の思う言語的意思疎通だけを評価軸にして人を選別し、殺害しました。  ――終章では、「尊厳」という言葉がクロースアップされてきます。安楽死には反対しつつ、三島由紀夫などを参照して、状況によっては尊厳ある自死が存在することも肯定的に捉えます。しかし、自死に尊厳を認めるならば、尊厳のない生に対して死をもって抵抗することが正当化されてしまうようにも思います。「尊厳」とは、いつ、どのようなときに現れるものなのでしょうか。  渡邉 「尊厳」をそこまでクロースアップしたつもりはありません。世間では安易に「尊厳のある生/ない生」、「尊厳のある死/ない死」と語られます。私はそのような語りが嫌いなのだと思います。尊厳のないような生を生きざるをえなかった人も大勢います。でもその人たちの生を否定したくない。そして、尊厳のないような死に方をした人も大勢いるかと思います。でもその死を否定したくない。なぜその際、尊厳が奪われていたのか。どんな状況であれ、その人たちなりの生死があったはずです。世間はそうした生死にかかわる尊厳を安易に判断してしまいます。でも、私としては、その人たちの生死をめぐって、そして時に尊厳を奪われたような生死をめぐって、今生きている私たちがこれから何をできるか、何をすべきか、そうしたことを考えていきたいと思っているのだと思います。  ――あとがきに、渡邉さんがお母様に「運命は、選べへんで」と声をかける場面があります。渡邉さんのスタンスを象徴的に表している言葉だと感じました。  渡邉 障害者支援に従事する中で、障害やトラウマを負うことで、人間関係が難しくなる方とも多く出会ってきました。多くの福祉関係者が撤退する現場もあります。でも、なぜか、ぼくはそうした方々のことが嫌いになりません。障害や病、トラウマは決して自己責任には回収されません。それは個々人の意思の力ではどうしようもできない「運命」なのだと思います。それでも、みな、その傷を自分のこととして引き受けつつ生きています。ぼくはたぶんそうした姿に感化されているのだと思います。  障害や病、トラウマを負っても、ひとはそれらと付き合いながら生きています。そんなこと起きなければよかったのに、と思うこともあるだろうけれど、かといって引き返せるわけではありません。傷と共に生きることはやはり大事です。トラウマ論の文脈では「傷は愛せるか」という議論もあります。最終的に愛することはできないのかもしれませんが、しかし、葛藤してきた時間を無駄と切り捨ててはよくないと思っています。  ――最後に、「暴力行為を讃嘆する」殺伐とした社会において、安楽死推進に抗うとしたら、どのようなことができるのでしょうか。  渡邉 もともと本書では「抗う」という言葉とは異なる場所から語っていきたい、と思っていました。対立的になるのではなくて、安楽死を望む立場の人たちの思いや生き様を深掘りし、そこにある対人的・社会的な課題などを浮き彫りにしたいと思っていました。単に安楽死の是非だけでなく、その人たちの思いを探る中で、複雑な事情や人間的な思いが見えてきました。そうした安楽死という結論の手前で、そこに至る事情や思いをときほぐしたり、改善に向けたりすることが大事だと思っています。  身近な人が「もう死にたい」と言ったり、身近な人に対して「もう死んでほしい」と思ったりする場面もあるかと思います。でも、そうしたとき、そんなこと言わんといて、とか、そんな思いは抱くべきでない、とか思うのではなく、「そんな思いも抱くよなー」と思いながら、生きていくことも大事と思っています。気づいたら死んでしまっている場合もあるし、なかなか死にきれない場合もあるのが人間なのですから。  今時、医療現場では、「死の自己決定」を「尊重」することが流行っています。ある状態や年齢になったら、生の可能性を閉ざし、死の自己決定(あるいは家族の決定)へと導かれることも多くなりつつあります。もちろん、どこかでおしまいどきと思うことは本人や家族ともどもあると思います。でも、実は制度や医療や介護の人たちの力に支えられて「生きていく道」もあります。その可能性を閉ざしてはならないことを書いた本でもあります。制度や第三者の支援の活用によって、どんな障害や加齢においても「生きていく道」が開かれつつあります。  ――どうしたらその「生きていく道」が開かれるのか、それも今後お聞きしたいです。ありがとうございました。(おわり)  ★わたなべ・たく=日本自立生活センター事務局員。ピープルファースト京都支援者。障害者の自立生活運動や介護保障運動に、事務局兼介助者として尽力している。著書に『介助者たちは、どう生きていくのか』『障害者の傷、介助者の痛み』など。一九七五年生。

書籍

書籍名 「死んだほうがいい」が問いかけるもの
ISBN13 9784000617574
ISBN10 4000617575