2026/10/16号 1面

ハイデガー伝

対談=轟 孝夫×安藤 礼二<今、ここから生起するハイデガー哲学>ギヨーム・パイヤン『ハイデガー伝』(白水社)刊行を機に
<今、ここから生起するハイデガー哲学> 対談=轟 孝夫×安藤 礼二 ギヨーム・パイヤン『ハイデガー伝』(白水社)刊行を機に  白水社より、ギヨーム・パイヤン著『ハイデガー伝 カトリシズム、革命、ナチズム』(亀井大輔訳)が上梓された。総ページ750を数える大著で、フランス本国でも高い評価を受けた、ハイデガー研究の新たな基本文献だ。本書をめぐって、ハイデガーを専門とする轟孝夫氏と、文芸評論家の安藤礼二氏に対談をお願いした。(編集部)  ――本書の特徴の一つは、従来「非政治的」な哲学者として見られがちだったハイデガーに、一貫した積極的な政治的コミットメントを見出した点と思われます。  轟 そうですね。21世紀に入ってから、ハイデガーに関する新資料が複数公開されました。例えば、2005年に出版された妻エルフリーデとの書簡、2014年刊行の全集に収録された、ハイデガーの覚書集である通称「黒ノート」群、またその刊行後に公になった弟フリッツ・ハイデガーとの書簡などです。これらを参照して、ハイデガーが1930年という早い時期から既にナチズムに傾倒していたことが改めて示されています。  安藤 そもそも、ハイデガーが当初信仰していたカトリシズム自体、宗教であると同時に政治運動でもありますよね。ハイデガーは、近代的な意味の政治というより、中世以来、宗教と切り離せないような伝統的な政治の境位に居続けた哲学者なのではないでしょうか。この伝記は、ハイデガーのカトリック信仰時代から詳しく記述しています。轟さんが一貫して追究されてきた、ハイデガー哲学それ自体とナチズムとの関係に深くかかわる部分です。  ハイデガーの政治性を理解するのが難しい理由は、彼が〝内側から壊す〟という運動を常に続けてきたからだと思っています。一方ではカトリシズムの内側に入り込んで、カトリック的な神を破壊していく。他方ではナチズムに潜っていって、内側から解体して作り変えようと試みる。破壊した結果、別のところへと出ていこうとしているのです。しかしそれを外側から見ると、単にそのイデオロギーに染まっているのと見分けがつかない。  これは哲学的な変遷においても言えます。ある時期には「形而上学」を自らの主題に掲げるのですが、次の時代になるとそれを批判すべきものとして扱うようになる。ナチズムの問題に絡めるなら、ハイデガーはナチスへと傾倒していく過程で、「フォルク」〔Volk:民族〕を重要な概念として強調するのですが、ナチスと袂を分かって以降は常に批判的に用いるようになる。  つまり、ハイデガーは脱構築を徹底して行ってきた哲学者なのです。そのため、壊すものと創り上げるものの差異がきわめて見えにくい。逆に言うなら、だからこそ読まれ続けているのでしょう。ナチズムに正面から抵抗した哲学者だったら、こんなに読まれ続けることはなかったと思うのです。黒ノート以降にこうした評伝が出ましたが〔原書初版刊行は2016年〕、ハイデガーを哲学の問題として今もなぜ検討し続けなければならないのか。その理由が、そこに求められるのではないかと思います。  轟さんは本書をどう読みましたか?  轟 黒ノート後の評伝として、ハイデガーの「反ユダヤ主義」の実相を、様々な典拠に基づいて正確に明らかにしようとしたことが、第一に挙げるべき特徴であり、長所だと思います。本書では、単なる人種主義としての「狭義」の反ユダヤ主義と、思想的な意味での「広義」のそれとをハイデガーは区別していたとされます。ハイデガーも前者をまったく持たなかったわけではないですが、ユダヤ人の弟子や友人もたくさんいましたし、狭義の反ユダヤ主義は本質的な問題ではなかったのです。  厄介なのは、広い意味での反ユダヤ主義を彼は積極的に唱えますので、ハイデガーの哲学を反ユダヤ主義と関係なく追究することはできないということです。彼の反ユダヤ主義は、神による世界の創造を唱えるユダヤ=キリスト教を背景とする西洋形而上学が、「存在」への接近を根本的に妨げていることに対する批判に他なりません。  安藤 要するに、ヨーロッパ的な主体性の形而上学を破壊するためには、ユダヤ=キリスト教以前の根源まで遡らなければならないということですよね。ハイデガーは、一方でカトリックに淵源する神を手放しませんが、他方でその神の根源へと遡行するときには、ユダヤ=キリスト教による歪曲を批判してそれを破壊しなければならないと考える。これが、カトリックの神学者になることをやめて哲学者になることを決意して以来、ずっと抱き続けてきた主題だったはずです。  そうした深い部分で、ハイデガーは広い意味での反ユダヤ主義的な思想と切り離すことができない。だからこそナチズムへの共振も起こってくるわけで、この点は、今後も哲学者ハイデガーが問題になり続ける所以ではないかと感じます。  轟 その点、本書はカトリックの問題もきっちり書いています。ハイデガーが生まれたのは文化闘争の影響が残った時代でした。ドイツ帝国では、ローマ教皇に忠誠を誓うカトリックが弾圧されました。また、近代主義のカトリック教徒はローマ教会を見限り、復古カトリックという分派を作ります。ハイデガーの父が堂守を務めていたメスキルヒの聖マルティン教会は彼ら復古カトリックに占拠されていました。ローマ教皇派の神父や信徒たちは、仮の教会でミサなどを行わざるを得なかった。ハイデガーが5歳の時に復古カトリックの勢力が衰えたため、教会はようやく返還されます。しかしハイデガーは、カトリシズムが自身の権益を擁護するために近代の政党政治の枠組みへと完全に取り込まれたことを、すごく批判的に見ていたようです。一種のリベラルな世界観に囚われてしまった政治状況に、いわば超政治で転覆を企てるというスタンスは初期から一貫していますね。  安藤 そういった意味で、ハイデガーは最初から最後まで政治的でした。近代的な意味での政治ではなく、宗教と結びついた政治性です。昨年私は『空海』(講談社)という本を上梓したのですが、空海もまた、そうした政治性を体現した人でした。天皇に派遣されて唐へと渡り、宗教によって国家、あるいは帝国を基礎づけようとする。  轟 空海は、固より国家の対立を融和することを期待され、天皇その人や太政天皇、廃位された皇太子に灌頂〔教えの正当な継承者として戒律や資格を授けること〕したのですよね。『空海』を読んで思いました。ハイデガーはヒトラーに灌頂したかったんだなと(笑)。  安藤 そう上手くいかなかったのは歴史性の問題でしょう。ヒトラーは灌頂を受けるにはあまりにも近代人過ぎた。ハイデガーはもっと古代的な王、強烈に「存在」自体を立ち上がらせうるような指導者を求めていたと思うのです。  轟 ハイデガーは1935年夏学期講義の『形而上学入門』(全集40巻)では、キリスト教の神を捨て、ギリシアの神々が到来し支配するポリスを共同体のモデルとしています。そこへ至る過渡期には、ルターなどのプロテスタンティズムに傾倒しました。『存在と時間』までは一応キリスト教の神の神性を究めるという路線なんです。ですから、『存在と時間』にはキリスト教的な人間学の影響がまだ色濃く残っています。  安藤 現存在から存在へと、究極の存在である神へとどう近づいていくか、ですね。  轟 当時のハイデガーは「超越」概念を強調しますよね。内在ではなく超越だ、と。内在を否定することは、近代の主観的意識から出発する哲学、ひいては世界を表象によって捉えようとする西洋形而上学全般を否定することに他なりません。『存在と時間』の序論でも論じられる「超越」には、やはり神の超越が二重写しになっているところがあります。もちろん、あまり単純化しすぎると、「ハイデガーにおける「存在」は神のことなんだ」と誤解される危険もありますが、これまで神として捉えられていたような超越性を、ハイデガーは「存在」として捉え直そうとしていると言ってよいでしょう。  安藤 しかもそうした試みが一貫しており、かつそれまでの歴史を内側から破壊しようとしているので、なおさら真意が捉えがたい。  轟 最初の破壊は1920年代後半です。『存在と時間』では一応キリスト教の枠内で議論しているのですが、28年夏学期のライプニッツ講義(全集26巻『論理学の形而上学的な始原諸根拠』)では完全にキリスト教と縁を切っています。キリスト教にとどまる限り、真の神性に到達することも、存在の問いも不可能であるとはっきり語り、古代ギリシアに向かうわけです。  安藤 逆に言うと、ギリシアに遡行するためにはユダヤを否定しなければなりません。超越的な神が無からすべての被造物を作り出してしまう一神教の否定です。そうした広い意味での反ユダヤ主義がすでに見られます。その点、今回の伝記が優れているのは、広義の反ユダヤ主義と関連づけながら、カトリシズムの問題や当時の大学闘争の様子、またハイデガーの故郷について大変細やかに描写しているところです。  轟 非常にいいですよね。これまでの伝記と比べるとカトリックに関する記述はかなり詳しいし、ハイデガーの遍歴――ギムナジウム就学のためにコンスタンツの宿舎に入り、フライブルクに移り、第一次大戦末期にベルリンで気象観測の訓練を受けて戦地に赴く道行き――も詳細に書かれています。これらの記述は、フーゴ・オットの『伝記への途上で』(未來社)やリュディガー・ザフランスキー『ドイツの生んだ巨匠とその時代』(法政大学出版局)が下敷きになっています。ですが、この二つのハイデガーの伝記と本書の資料的な違いは、黒ノートも含めたハイデガー全集や先述の書簡集がほとんど出揃っていることです。そうした新たな資料を参照して、かなり丁寧に彼の〝のし上がり〟が描かれています。  安藤 面白かったのは、ハイデガーの反ユダヤ主義には妻のエルフリーデが強い影響を与えていたという論点です。これまでハイデガー個人の問題として扱われがちだったので、盲点でした。  轟 プロテスタントのブルジョワ的な生活態度などもそうですね。カトリックの出自であるハイデガーがプロテスタントのエルフリーデと結婚することを父と母は大いに悲しんだ。しかしそれで両親との関係が途絶したわけではありません。第一次大戦終戦後の困窮期には、食糧の仕送りをもらったり、研究に専念するために子供の面倒をお母さんに見てもらったりしていました。  安藤 また、ハイデガーと青年運動とのかかわりも克明に記述されています。  轟 いい点を指摘していただきました。ドイツの青年運動との関係は見逃せません。ハイデガーが山小屋を好み農夫を称賛したのは、彼がメスキルヒの田舎者だったからだ、と現代の知識人は嘲笑します。しかし実は、そうした自然賛美の源流は青年運動で、都会のインテリが担った思潮だったのです。もともとハイデガーには故郷を特別視する意識がなかったし、野の道を散歩するような習慣も持ちませんでした。エルフリーデを通じて青年運動に感化されることで初めて、古き良きドイツを再発見したことが本書からわかります。  安藤 私は大江健三郎を論じているのでよくわかるのですが、故郷というものは、はじめはみなそこから出たがるものなのです。故郷は後から再発見される。ハイデガーにとってその契機となったのが青年運動やワンダーフォーゲルであり、やはり近代的な現象だった。それが本書で実証的にわかるようになりました。彼は近代の哲学者だったのです。  轟 もはや現代人と呼んだ方がよいくらいです。妻の設計で山小屋を建てつつ、郊外の住宅地に一戸建てを買う。当時では珍しく自動車も所有して、子供を連れて夏にはカヌーで川下りをし、冬はスキーを楽しむ。ハイデガーは田舎者ではなく、むしろ都会人だったわけです。  この、青年運動とのかかわりは、ナチズム関与にも効いてきます。青年運動に感化されたナチ的学生たちにとって、ハイデガーはカリスマでした。ゲオルゲ・クライス〔19世紀後半、カリスマ的文筆家シュテファン・ゲオルゲのもとに集まった、詩人・文学者・学者らのサークル〕も強く意識して、ハイデガーは学生たちを組織しようとしていたでしょう。  安藤 これまで思想家を思想家としてだけしか捉えられなかったのが、その背景まではっきり見えるようになりましたね。  轟 あとは、ハイデガーは愛人が多すぎるという問題(笑)。アウグスティヌスの愛の定義"volo ut sis"〔「あなたが存在することを欲す」という意味〕を口説き文句として使いまわしている。  安藤 これは、すごい。しかも、その多くが教え子であった。ハンナ・アーレントの件は周知ですけれども、ここまですごいとは思わなかった。  轟 エリザベート・ブロッホマンをはじめ、知的な関係を基礎にした性愛ですよね。実は妻エルフリーデも別の男性と関係を持っており、次男ヘルマンはハイデガーと血が繫がっていません。しかしハイデガーはヘルマンを自分の息子として育て、愛情を注ぎました。  安藤 普通では考えられない家族関係ですよね。そうしたゴシップ的な意味でも、ハイデガーはやはり規格外の人間だった。また、今日ではハイデガーの反ユダヤ主義を非難する材料となっている黒ノート。これも、彼は破棄しようと思えば破棄できたわけですよね。全部残したのはハイデガーの意志だった。それらをすべて公表してしまうのがまたすごい。  轟 ハイデガーはよく、「都合の悪いところを隠蔽・改竄している」と非難されます。確かに、ちょっと怪しいこともしてはいるんです。彼は『形而上学入門』に「NSの内的真理と偉大さ」という一節を残しています。NSはNational-sozialismus(国民社会主義)を指していますが、単行本として刊行する際に、これを「この運動」と書き換えて、〝自分はこれを近代技術の偉大な体現者という意味で理解していたのだ〟などと注記を付します。それはハイデガーの思想変遷的に不当です。そういった隠蔽もないわけではないのですが、とにかく黒ノートでは一番危険なところを出している。  黒ノートが公刊されたとき、ハイデガーの反ユダヤ主義を検証すべく、遺稿管理人が小ワーキンググループを組織し、全遺稿の調査を行いました。結果、見つかった問題個所は、5箇所。それも、大した問題ではなかった。ハイデガーは、後世反ユダヤ主義者だと批判されることを予期しつつも、哲学的にはディフェンスできると思っていたのでしょう。  安藤 ハイデガー=ナチ、として片づけてしまうことは簡単です。しかしそれで本当にいいのか。これが今回の対談のメイントピックでもあります。  轟 この『ハイデガー伝』の評価にもかかわる問題ですね。本書は、ハイデガーの死後に起こったハイデガー・ナチズム論争に大きく紙幅を割いて、その経過を詳しく追っています。  安藤 しかも、それが日本語で検証可能になったことには大きな意義があります。ハイデガーがナチズムに当初加担していたことをどう捉えるか。これは日本人にとっては大変重要な問題です。なにしろ、西田幾多郎も鈴木大拙も京都学派も、みな大東亜共栄圏構想へ流れ込んでいった経緯がありますから。加害者側に立った人間を悪として断罪すれば済むのか。そうした問題が鮮明に浮かび上がってくる。  轟 ナチズムに対するハイデガー自身のスタンスは変遷していくのですよね。当初、彼は「存在」によって基礎づけられた民族共同体を作り、これを存在の開示の場にすることを構想していました。弟への手紙に書かれていますが、彼が党員になったのは内側から変革するためだというのです。その後、彼を「カリスマ」として信奉していた学生たちが急進化し、ナチスの政権獲得後は大学内でナチ化を主導する勢力に発展しました。彼らは労働者階級と知識階級の対立の融和を図ろうとしていましたが、ハイデガーもそれを支持していました。まじめに社会主義をやろうとしたわけです。  ハイデガーは彼らを自分の哲学によって指導しようとするわけですが、それがうまくいかないことを悟り、フライブルク大学の学長を辞任します。とはいえ、その後1年くらいは内部変革路線で議論を続けました。自分の理想のナチズムを掲げつつ、現実のナチズムは全くダメだ、として現状を批判するスタンスを1935年まで取るのです。しかし、36年以降大きく転換して、ナチズムそのものを近代的な主体性の完成形態として位置づけ、批判するようになります。「自分の立場こそ真のナチズムだ」という言い方をしなくなるのです。それと同時に、フォルク概念やナショナリズム、社会主義もまた、近代的なものだとして距離を取る。  安藤 この本を読むと、ハイデガーはナチ以上のナチだと捉えられかねません。  轟 ある意味ではその通りなのです。しかしここに含まれるニュアンスを読み取らなければなりません。最初はナチ以上のナチたろうとしたのですが、ある時期からはナチが近代的原理の権化でしかないことを自覚した。しかし本書の記述は、ハイデガーは戦後に至るまでナチスを肯定していたと読めますよね。私はそれは違うと思います。ナチスも当初は近代に対する対抗運動としてポジティブな要素はあったのだが、しかしそうした対抗運動としての側面を明瞭な自覚へともたらすことができなかった、とハイデガーはちゃんと言っている。1968年に行われた雑誌『シュピーゲル』での対談(没後発表)にも表れたそのニュアンスを、本書は捉えられていません。  安藤 ハイデガーは、反近代という軸を戦前から戦後まで一貫させていたわけですね。それは戦時期の日本の思想運動における核心でもありました。しかしハイデガーは、全体主義も社会主義も、もちろん資本主義もナチズムも基本的には近代なのだと喝破する。そのうえで、それらをどう壊していくのかを問いました。  轟 ナチズムやファシズムの反近代性を当初は高く評価していたハイデガーは、30年代後半になると、逆にそれらこそ近代を加速させるものだと見るようになります。反近代を掲げたものが実は近代の完成形だった、という構図は彼のニーチェ読解の核心をなす主張ですが、それはナチズムに対する批判でもあったわけです。  要するに、ハイデガーの哲学的立場を、本書の著者パイヤンは理解できていないのです。「存在」とは何か、という核心部分についてです。これは専門研究者さえもあまり触れようとしない問題なのですが……。しかしこれに手を付けないと、ハイデガー独自の立場や、ナチスとハイデガーの本質的な違いについて理解することができません。歴史家にそれを求めるのは酷ではありますけれど。  戦後、ハイデガーは有名なブレーメン講演で、機械化された農業産業とガス室での死体の製造とを等置します。ここからパイヤンもそうですが、人々は「こいつは全然反省していない」と即断するのですが……わかっていない。つまり、死体の製造工場のようなグロテスクな機構に、普通の人が官僚主義的に、何もおかしいと思わずかかわってしまう、そのゲシュテル〔Ge-stell:ものごとを対象化して何らかの目的へと暴力的に動員してしまう構造の全体〕の支配の自明性をこそ、彼は問題にしているのです。  だからこれはハイデガーの反省に基づいた思惟だと思いますよ。ホロコーストを反省していないのでは決してない。  安藤 それから、現代のメディア状況とも直結しますが、「正義」の名のもとにすべてが断罪されていっていますよね。ここまでの議論で分かる通り、ハイデガーは怪物的な人間でした。怪物的な人間だからこそ怪物的な思考ができた。では、それを皮相な意味で「非倫理的」だからと火にくべてしまっていいのでしょうか。もちろん、ハイデガーには擁護できないところも多い。しかし、その哲学的な貢献をゼロにしてしまっていいのか。世界大戦の時代を代表する哲学を一つ選ぶとしたら、ハイデガーしかないのではないか。私は強くそう思っています。  例えばハイデガーに対抗する哲学者としてレヴィナスを持ち上げたとする。しかしそこでは、今度はシオニズムの問題が出てくる。ナチズムとシオニズム、どちらがより悪なんだと問うことに意味はないですよね。ハイデガーが焚書になるのならレヴィナスもそうなる。  轟 シオニズムは端的に近代ナショナリズムですよね。  安藤 はい。だからこそハイデガーは、近代ナショナリズムを内破する試みの貴重な実例になりえます。例えば、後期思想の中心をなす「性起」〔Ereignis:存在や経験が立ち現れてくる一瞬一瞬の「出来事」〕です。彼はこの概念で、世界と〈私〉とが共に立ち上がってくる動的なあり方を表現します。そこにこそ、日本人がハイデガーにこれだけ魅惑されてきた所以がある。ヨーロッパ哲学とは異なる哲学の可能性を、ヨーロッパ哲学を内側から徹底的に破壊することで切り開こうとしている。  『存在と時間』においても、フッサール的な主観の志向性ではなく、場における開示性が扱われます。〈私〉を破壊して主体を別のものに開いていくという発想です。そうしたところに、ハイデガー哲学を日本人が読む必然性が求められるのではないか。  轟 フッサールは志向性を結局、理性や意識に閉じ込めてしまいます。それに対してハイデガーは、世界そのものに現存在はさらし出され、超越しているんだと言っている。「心の中」みたいな内面性を拒否するわけです。  安藤 開示されている存在へと超越していくという意味で、言うなれば内在的超越ですよね。西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一という概念にも通ずるでしょう。そしてそこでたどり着くのは、時間と空間が共に生まれてくる境位です。歴史的な始原ではなく、「今、ここ」。それが、ハイデガーがギリシアに惹かれながらも、最後はそこから離れていった理由だと思います。歴史とは別の始原は、どこか遠いところではなく「今、ここ」に生成して、ある。  安藤 もう一つ、轟さんが最初のご著書『存在と共同』(法政大学出版局)で強調されていたのは、ハイデガー哲学が問題にしたのは〈私〉とともに生起する共同というあり方だった。『ハイデガー伝』では、こうした観点も落ちてしまっている。  轟 はい。宗教などもそうですよね。個人の信仰の問題にとどまるものではなく、共同体をどう基礎づけるか、という問題意識とダイレクトにつながっています。  安藤 実は空海にも、ハイデガーが摑もうとしたものと通底するテーマがあったのです。存在者ではなくて、何か根源的なもの、動的な存在からこそ存在者が、そして世界が、まさに性起してくる。それが共同体を基礎づける。  あるいは、折口信夫。ハイデガーとほぼ同時代人で、近代化によって昔ながらの文化や風土が破壊される過渡期を生きました。彼の学問的端緒は実は言語論なので、ハイデガーと響き合う部分も大きい。  轟 ハイデガーにおける言語と詩ですね。ハイデガーにとって、存在そのものが詩的な語りなのであり、人間はある種、存在の語りの共鳴板の様なイメージですね。  安藤 根源的なものは静的ではなく、そこから森羅万象あらゆるものが生み出されてくる動的で能産的なものである。まさにそれが言葉なんだ。そう宣言したのが空海であり、折口なのです。それにきわめて近いヴィジョンをヨーロッパで打ち出したのがハイデガーだったのではないでしょうか。  轟 「芸術作品の根源」論文もまさにそうだと思います。世界の立ち現れを言葉が蔵している。「言葉は存在の家である」とハイデガーは言い残していますが、要するにこれは、存在自身の語りかけを言葉が保存しており、人間はその言葉を通して存在へとさらし出されているといった事態を示しています。  安藤 そこでは、語るのは存在であると同時に〈私〉でもあるという逆説があります。おそらくそれが「現存在において存在が開示している」ということです。「現〔Da〕」というのは、言葉や表現が溢れてくるような場なのでしょう。  轟 ハイデガーは真理の概念を非覆蔵性〔Un-verborgenheit:古典ギリシア語「真理(アレーテイア)」のドイツ語訳で、覆いが取り払われたことの意〕として、すなわち現れていることそのものが真理の本質である、と理解します。そして何かが「現れる」とき、その現れを現われとして受け止めている契機が本質的に要請されます。それが人間です。存在は〈私〉の参与なしにはあり得ないのだが、しかし〈私〉が生み出しているわけではない、というわけです。空海や京都学派、また現代思想はこの超越と内在の二元性を正視しています。それに対して、伝統的な西洋哲学は、主観へと一元化する内在の哲学へと進展していきました。  安藤 今後の日本哲学再構築のための基本線は、最澄・空海の再読なのだと思います。特に空海は、ハイデガーがカトリックからギリシアへと遡り、これを解体・再構築したのと同様のことをずっとやってきた。それは同時に共同体の基礎づけという、政治的な課題を孕んだ哲学実践でもあった。生きた時間も空間も異なる空海とハイデガーですが、この二人を対峙させると、きわめて興味深い風景が開けてくる予感があります。  まさに言葉と詩です。主体性及び対象性を持たない哲学を表現するには、詩の言葉や芸術しかない。言葉を論理だけで捉えて、前に立てる〔vor-stellen〕=表象してしまう近代への抵抗です。そうしてみると、ハイデガーが『存在と時間』を構想の1/2しか実現できなかったのは、詩的でない著述の仕方をしたくなかったからだとも思うのです。  轟 この伝記は、様々な事実を丹念に調べてはいるのですが、思想が十分にわかっていないので、そうした思想的な葛藤は全然問題にされていませんよね。  安藤 そうです。ハイデガーは一人の人間であるだけでなく、哲学者でもあったわけですから。  安藤 他方で、この伝記が逆説的に明らかにしてくれたのは、独立した優れた思想家は、生涯にわたってその核心が変わらないということです。表面的な言葉遣いは変わり続けるのですが、芯の部分は変わらない。優れた哲学者のことを知るためには、生涯における思想的変遷を丹念にたどる必要があるでしょう。  轟 そうですね。例えば、「血と大地」という言葉遣いです。これはナチに典型的なイデオロギーで、本書ではハイデガーも賛同していた、とされています。しかし、講演などを収録する全集16巻を読めば、血と大地はあくまでも「存在」に基礎づけられているとされ、相対化されていることがわかります。精神や存在こそが身体性を規定しているということです。それが理解されず、あたかもハイデガーが人種主義を取っているかのように書かれている。  安藤 「絶滅〔Ver-nichtung:無化〕」という言葉の取り上げ方もよくありません。ハイデガーは、ナチズムこそが近代的主体性=ユダヤ的なものの完成形なのだから、主体同士がぶつかり合って自己破壊的な状況に陥るだろうと言っているに過ぎない。人種としてのユダヤ人を絶滅させることを望んでいたわけではありません。  轟 この語をハイデガーは39年頃から用いているので、時代的に絶滅収容所〔Vernichtungslager〕を含意することは不可能でしょう。そしてハイデガーの用語法としては、主体性というものが持つ自己破壊的な本質のことを言っていますからね。「絶滅」という言葉を使ったからといって、ホロコーストを肯定していたとするのはおかしい。  本書が反ユダヤ主義を「狭義」と「広義」に区別し、哲学的な意義を一応は汲み出そうとしているのはいいところです。しかし、最終的には彼の思想がわかっていないがために、それをうまく位置づけることに失敗している。私が黒ノート論で一貫して主張してきたのは、ハイデガーが「ユダヤ的なもの」というときは、ナチス自らがそうなのだと批判する文脈ばかりだということです。「いくら反ユダヤ主義を唱えようと、近代的主体性を体現している以上、お前たちこそがユダヤ的なんだ」と、韜晦しつつ皮肉っているのですね。これを世の人々はとにかく読めません――全集の編者ですら!  安藤 孤立するのも頷けますよね。決してハイデガーを全面的に肯定するわけではありません。問題を孕んだ哲学であることも事実です。しかし、問題であるからこそ読み続けなければならない。「存在」が性起することについて、ハイデガーははっきりと暴力的なものであると記しています。力の問題をどのように考えていくのか。きわめて現代的なテーマです。  轟 本書への不満を掃き出してしまうなら、バウムガルテンやツェラーンに関する記述は新味がなく、もう少し立ち入って調べてもらいたかったですね。それから、翻訳の問題です。この大著を訳出した労には頭が下がりますが、誤訳も少なからず見られます。明らかに意味が通らない訳文、ハイデガーのテクストの引用がフランス語からの重訳になってしまい、ドイツ語原典と相当ずれてしまっている箇所が多数ありました。もったいないですね。  安藤 やはり、ハイデガーの伝記としては哲学的内容にも踏み込んでほしかった。特に、ハイデガーの1936年以降のケーレ〔Kehre:転回〕の思索について。『空海』を書いたときに痛感しましたが、哲学者の生涯と思想は分けることができないのです。とはいえ、本書が伝記的な事実を、ナチズム以前から以後に至る広範囲にわたって網羅的に知らしめたことは、ハイデガーの捉え方を大きく変える成果だと思います。  轟 ハイデガーのナチス加担は、普通の市井の人のものとは動機が異なるわけです。それを理解するには、彼の思想へと入り込んでいかないといけない。そこは読者各々が補いながら上書きしていくことが必要ですね。その出発点として非常にいい本だと思います。カトリシズムとの相克、妻エルフリーデとの関係、青年運動や戦争経験といった、広い文脈の中でハイデガーのナチス問題を捉えるために、一歩進んだ伝記になっているのではないでしょうか。  安藤 黒ノート以降のハイデガー研究はここが基準となるでしょうね。(おわり)  ★とどろき・たかお=防衛大学校教授・哲学。著書に『存在と共同』『ハイデガー『存在と時間』入門』『ハイデガーの超―政治』『ハイデガーの哲学』など。一九六八年生。  ★あんどう・れいじ=文芸評論家・多摩美術大学教授。著書に『神々の闘争 折口信夫』『列島祝祭論』『井筒俊彦 起源の哲学』など。一九六七年生。

書籍

書籍名 ハイデガー伝
ISBN13 9784560024768
ISBN10 4560024766