2026/07/10号 1面

都市・移動・感染症

座談会=浜田 明範・澤野 美智子・市川 智生・西 真如<研究の「協働」と感染症>叢書「感染症の人間学」(全四巻)刊行に寄せて
座談会=浜田 明範・澤野 美智子・市川 智生・西 真如 <研究の「協働」と感染症> 叢書「感染症の人間学」(全四巻)刊行に寄せて  春風社より、「感染症の人間学」と題する叢書が出版された。浜田明範編『都市・移動・感染症』、澤野美智子編『感染症と生の統治』、市川智生編『感染症をめぐる集団変容と歴史』、西真如編『感染症の苦しみへの責任』の四巻本で、文化人類学を中心としながら、学際的な視野を持って行われた研究だ。COVID―19をはじめとした感染症と人間との関係に、深い示唆を与える論集になっている。刊行を機に、編者の四氏にお話を伺った。(編集部)  浜田 「感染症の人間学」は、2023年から3年間にわたり行われた、科研費の学術変革領域Bによるプロジェクトです。COVID―19のパンデミックは、ご存知の通り2019年末ごろ中国武漢で発生したと考えられるウイルスによって引き起こされ、2020年には世界中を覆いました。その間に、感染症の専門家というわけでは必ずしもない、文化人類学者や歴史学者、哲学者、社会学者といった人文社会系の研究者も、「このパンデミックについて何か考えなければならないのではないか」という問題意識を共有していたのではないかと思います。  今回の共同研究において大きなポイントだったのは、日本以外の地域において、パンデミックの流行はどのようなものであったのか明らかにしたい、という問題意識でした。この意識が、プロジェクトに参加した研究者の専門のばらつきに反映されたのではないかと思います。専門性の違い、地域の違い、ディシプリンの違いといった差異がある中で、これまで感染症や医療に関心を持ってきた研究者と、必ずしもそうではなくても、目の前で起きている出来事について考えようとしている研究者がいる、ということが、本研究の軸になっています。  それに加えて、理系、特に医学領域の研究者の方々との協働を通じて、相当に豊かな対話を行いながら論文を執筆することができたことは強調したいと思います。2022年に研究の準備が始まりましたが、当時はまさにパンデミックの真っ只中でした。そこで、人文学を超えた人間学という形式で、どのようにパンデミックについて考えることができるのかを、世界各地の事例、あるいは各感染症の流行状況との比較などを通して捉えていくというのが、この研究を規定する枠組みです。  第1巻は、都市化と移動をテーマとして掲げました。これらはそもそも、ウィリアム・H・マクニール『疾病と世界史』(上下巻、中公文庫)など、感染症史の分野で展開されてきた、非常に重要なトピックです。感染症がいかに捉えられてきたのか、COVID―19の流行について何が言えるのか。これを世界各地の事例から考えたというのが第1巻の位置づけとなります。  澤野 第2巻には「感染症と生の統治」というタイトルがついています。生政治と脱人間中心主義がメインテーマの論集です。この両者がいかに結びつくのか、実は研究開始当初は見通しがなく、暗中模索の出発でした。しかし、ウィリアム・ウォルターズ『統治性』(月曜社)の読書会を開催したり、原稿を読み合わせたりする中で、ようやく着地点が見えてきて、この叢書第2巻に結実しました。  生政治も脱人間中心主義も、世界中いろんな人がCOVID―19のパンデミック時に議論しています。生政治については、特に西洋圏の研究者たちが、ロックダウンをはじめとした政府によるコントロールに対して危機感をあらわにしました。個人の人権の侵害や、市民自ら政府による管理を望むあり方が浸透してきていることに対して、警鐘が鳴らされたわけです。他方の人間中心主義については、このパンデミックで改めて、動物からヒトに病が感染することが注目されると同時に、ロックダウンによって生態系や環境の変化が生じたことが論点となりました。  最終的に、両者の結節点には二つの特徴が認められるという点に着地しました。一つは、脱人間中心主義は、統治性に対する抜け道を用意するかのように見えるということです。生政治に個々人が絡め取られてしまわないようなあり方を指し示しうるわけです。しかしもう一つは、他の生物とのつながりを追求した先に、結局は生政治に回収されてしまうということです。脱人間中心主義は、生政治から人間を自由にするように見えるものでありつつも、同時に生政治へと再回収してしまう働きも見せるのです。本書の序章で述べたところのこのビジョンを提示できたのが、第2巻の大きな成果ではないかと思います。  市川 第3巻のキーワードは、集団変容(集団化)と歴史です。このどちらも、第3巻だけに関わるテーマではなく、研究に携わる方全体が何らかの形で考えなければならないような視角だったのだろうと思います。  共同研究全体の代表者は浜田さんであり、メンバーはみな、彼の専門とする文化人類学ないしは医療人類学的な問いかけを意識したと思うのですが、他方で研究の前提に、歴史学研究と文化人類学研究のコラボレーションという側面もありました。しかし、私自身は日本近代史において医療社会史を研究してきた歴史学者として、歴史的に何かを考える、という仕事だけにこれまで注力してきました。その立場からすると、「集団化」について問われたときには非常に心許ないところがありました。  第3巻を執筆することになった班は、歴史研究者と文化人類学研究者の構成比がおよそ半々でした。最初非常に戸惑ったのは、お互いに研究に関する共通言語がなく、言葉のコンセンサスが取れないことです。人類学の研究報告に対して歴史学の立場から質問をしてもその意味が伝わらなかったり、あるいはその逆だったり、ということがしばしば生じました。おなじ「人文科学」として本当なら様々な交流がなされるべきであった両者がここまで議論できなかったとは思わず、率直に驚きました。とはいえ最終的には、「集団化」というキーワードから研究の全体を改めて組織化することによって、この難局を突破することになります。  さて、歴史学研究とCOVID―19についてなのですが、グループ立ち上げ当時は、いろんな博物館で新型コロナウイルス感染症の流行に触発された展示が始まり、様々な論文集が出始めた頃だったと記憶しています。前者は、史料のなかから感染症関係のものを取り出して並べるもの、後者においては、過去の感染症について掘り起こして議論するものが多かったと思います。それらは、無駄な作業だったわけではありませんが、現代のコロナとの関連を深く検討するところまでは到達できなかったように思います。なので、この研究ではそこからもう一歩先に進むことを目指しました。歴史学研究のメンバーは集団化について考え、文化/医療人類学のメンバーは歴史的な観点から自分の研究フィールドの現象を捉え直してみることから始めたわけです。  その結果、一定の結論が出たかというと、現時点では「試しに互いに議論をしてみた」という段階に留まっているところではあります。今回の執筆メンバーはこれからも共同研究を続けていきますので、問題意識を今後に持ち越している状況です。  西 第4巻は「感染症の苦しみへの責任」というタイトルです。題名自体は最後に決定したのですが、振り返ってみると、このテーマに向けて議論を進めてきていたように感じます。  この題は、医療人類学者のアーサー・クラインマンら『他者の苦しみへの責任』(みすず書房)にちなんでつけられています。医療人文学において、病の苦しみに対して私たちはどのような責任を持ちうるのか。格差や構造的暴力の問題に言及しながら、医療人文学的な潮流の上に成立した論集である、というのが第4巻の立ち位置になります。私自身は医療人類学者ですが、メンバーには医療人類学者のほかに、地域研究、医療経済史、哲学、医学など様々なバックグラウンドを持った方がおり、多彩な研究者が集まりました。  本書は四部構成を取ります。第Ⅰ部は格差社会を扱います。第1章においてはブラジル国内の格差が主題となりました。第2章はいわゆる南北の格差、アフリカを主題として、死政治という分析枠組みを用い、いかにして北の諸国・製薬会社が南の国の人々を「死ぬに任せる」ことをしてきたか論じます。第Ⅱ部はインド・ベトナムが舞台です。この二国は対照的な国家です。前者は、健康政策、保健、医療政策に失敗しつづけてきた国です。経済成長を経験しながらも社会の格差を乗り越えられなかったインドという国でなにが起こったのか。後者は逆に、2000年代において中央集権的な仕方でSARSの防疫においてある程度の成果を得ました。ベトナム政府はCOVID―19に際して何をしたのか。これら二つの事例から、健康と国家について論じています。  第Ⅲ部では「責任と正義」をテーマに掲げ、構造的暴力や格差に注目してきた医療人文学の成果の上に、私たちの理論的な貢献を重ねることを試みました。第6章で大北全俊さんが哲学者の立場から、アイリス・マリオン・ヤングの責任論を用いて、責任の所在の特定ではなく、あらゆる人が少しずつ他者に対する責任を分有し合っている様を描きます。この責任論は、感染症における責任論と相性が良いだろうと大北さんも私も直観していました。第5章で私は日本の事例を「共謀」概念によって分析し、それに次ぐ章で大北さんが理論的な整理を行った形になります。  第Ⅳ部ではCOVIDから離れて、より広い視野から人間と感染症の関係を見つめ直すことを試みます。第7章ではマラリアについて論じ、第8章の鼎談では人口・格差・感染症という問題について語っていただいて、人類と感染症の歴史的な関係を振り返りつつ、今後ポストコロナの感染症政策をどのように捉えたらよいかという話をしていただきました。  浜田 さて、本叢書について確認したところで、話を展開させていただければと思うのですが、そもそもコロナとは何だったのでしょうか。第1巻において、フィリピンの地域研究をしている大学院生の芝宮尚樹さんが素晴らしいことを書かれています。「〔フィリピンの若者たちの〕語りは、COVID―19パンデミックを、物事を一挙に変化させた一方的で全面的な出来事として見るのではなく、危機の様相のもとで蠢く雑多な動きに目を向けるように……促してくれた」。パンデミックについて考えるためには、パンデミックについてだけ考えてはダメだというのです。  これに私は強く共感します。「コロナ禍」という言い方をしてしまうと、どうしても人間対病原体、といった図式で両者の関係を考えるように議論が整地されがちです。しかし、都市や移動ということについて考えるなら、人間も病原体も、「都市」や「農村」といった特定の環境・特定のテクノロジーのなかで、多様で独特の振る舞いをしているのです。  パンデミックは、特定の場所を持たない、一見すると普遍的な現象です。それにもかかわらず、多様な受け止め方や多様な見解が生まれてしまう。共通の経験をしているようでありながら、必ずしもそうではない、という点に、大きな皮肉と考察の難しさが潜んでいるように感じます。  西 医療人文学者が、とりわけ「感染症の苦しみへの責任」というような仕方で問題をフレームするときには、あたかも感染症の問題は人間社会だけの問題であるかのように枠付けられかねません。人間と感染症の関係ですらなく、人間社会だけの問題であるかのように捉えられてしまうわけです。「COVID―19は人災だ」と語る人も見られたほどでした。  しかし今回の研究からは、感染症の現象を読解するためには、病原体と人間、さらには環境的・歴史的な要因をすべて読み込むべきなのだと教えられました。医療者はこのことを深く理解しています。例えばマラリアは、マラリア原虫によって引き起こされます。病原体のファクターをどれだけしっかり読み込めるかという視点があるわけです。  市川 第2巻では後半に歴史的な事象を扱うチャプターが三つ配置されているのですが、どれもみなCOVID―19を扱うものではありません。マラリア、ペスト、マラリアの順で並んでいます。この取り合わせを、医学研究をされている方が見たら、「COVID―19がテーマなのにマラリアやペストを扱うの?」と疑問視することでしょう。COVID―19はウイルス学の領域だし、マラリアは寄生虫あるいは原虫学、そしてペストは細菌学の分野だろうと。これらを同じ場で論じるなんて、いかにも「わかっていない」ようですね。  けれども、人文科学、ないしは社会科学的な研究ではそれが必要です。なぜなら、現象を歴史的に見て、人間の社会・経済・環境といったファクターを投入した時には、細菌や寄生虫による病とCOVID―19との間には類似性が見出せるからです。マラリアやペストも、第一に、世界的に流行した感染症現象であった点では、COVID―19と同じ舞台に立っています。第二にペストは、19世紀末に香港を起点として世界的流行が起きた感染症で、それ以前には古代および中世のヨーロッパでの大流行が知られています。前の流行を経験している人がまったくいないなかで発生したという意味で、人々に対するインパクトということでは、新興感染症であるCOVID―19と似た現象であったように思います。また、第三にマラリアは、19世紀の半ばから後半にかけて、原因や感染経路において医学的な発見がなされた病気なのですが、これはコロナが、非常に短期間のうちに遺伝学的な解明などが進んで病気への対処が作られていったことと類似性を認めることができます。  つまり今回の研究は、コロナの研究をするために、コロナだけを見ていたのでは分からないことに注目したものだと言えると思います。マラリアやペストの歴史研究は、医療社会史研究で取り組んでいる方が非常に多い分野です。それを敢えて現代と比較して大真面目に議論できたというのが、今回の研究の一つの成果であり、歴史研究者が現代の問題に取り組む試みだったと思います。  澤野 とはいえ今回のプロジェクトは、コロナもしくは他の感染症を通して人間のあり方を明らかにすることへと関心を傾けたものでした。その点において、COVID―19とは何だったのかということを、第2巻から指摘することはとても難しいと言わざるをえません。  執筆者のうち三名はコロナ以外のことを扱い、その中で感染症に対して人間がどのように振る舞うか、人間とその他の生物・非生物がどのように振る舞ってきたかということを考えました。文化人類学は、ある特定の社会の具体的な現象について非常にマニアックに追求することを通して、その現象を超えて人間の営みそれ自体を見ようとする学問と言えます。その意味で、「コロナ」という現象に対してある種の特徴づけを試みることは、少なくとも本書ではなかなか難しかったですね。  ――皆さんのお話に共通しているのは、コロナという現象、あるいはそれを前にした人間や環境のあり方が多様であるということと思います。それゆえに「コロナとは何だったのか」と問われても語りづらいこともあるのではないでしょうか。そして、この多様性と、市川さんがおっしゃったような共同研究における共通言語の取れなさとは、どこかリンクしているように思われます。  浜田 二つのことをお話しできると思います。第一に、共同研究としてお互いの研究に対してコメントを出し合っており、それが各人の論考の様々な箇所に影響を及ぼしました。そのため、一人ひとりが銘々に書いた論文を集めた論集とは性質の異なるものになっています。その過程において、事実確認のレベル、あるいは言葉遣いのレベルから、それぞれが自分の分野だけで通じる言葉に留まらないように工夫していたところは認めてよいと思います。  第二に、しかしながら困難もありました。「どれくらい意地を張っていいか」という問題です。それぞれの分野の専門性をどのくらい手加減することなく発揮するか、ということですね。もしかしたら、私がプロジェクトリーダーとして、それを少し抑圧してしまった側面もないとは言い切れません。よく読んでみると、ある意味ではすごくお行儀のよい文章が並んでいる。もっと対立を先鋭化させるやり方も、ひょっとするとありえたのかもしれません。  その点で、多分野で協調して研究する効用は一面では確かにありましたが、他面では今まで探り探りやっているというのは偽らざる事実ですね。  市川 この三年間の研究期間中、浜田さんが教えていらっしゃる文化人類学の大学院生の方々に混ぜてもらい、読書会を行っていました。若者たちは恐れ知らずで、大著を一週間で読んでいこう、などと果敢に挑戦します。比較的新しく、分厚めで、一人で読むのはしんどいような本を、みんなで頑張って読んだのですね。  そこで私は、非常に楽しい経験をしたと同時に、この研究グループに参加している医療人類学や文化人類学の方々が書いたりお話したりする言葉は、まだわかりやすいほうなのだということを認識したのです。実は読書会で読んだ本のなかには、私には歯が立たなかったものもありました。書名を言うとバカにされそうなので黙っておきますが(笑)、わからなかったのは、そこに書かれている言葉というよりは、その語り方でした。文化人類学の単著には、語り手自身も登場人物として登場する記述が少なくないというのが、率直な驚きだったのです。  これは、観察者も客観的ではありえないということを意味しているのでしょう。――と、今では平気で言えますが、当初はかなり戸惑いました。というのも、私が学部生時代に歴史研究のトレーニングを受けた際には、徹底して主観性を排除するよう教育されたからです。しかし考えてみると、歴史学教育の方針は理想としては理解できますが、歴史研究においてすら、客観性を100%保証することはできないのかもしれません。そこで、第3巻の序章は、敢えて個人的な経験から書き始めてみました。各論にまでそのスタンスを持ち込むことはできませんでしたが、歴史叙述の客観性はどこまで普遍的なものなのだろうかと、この共同研究を通して考えるようになりました。  澤野 その意味で言うと、第2巻の研究は文化人類学者がマジョリティであり、そうでない方々が相当マジョリティに合わせてくれました。哲学者の先生からしてみたら、きっといろんな言葉が気になっていたはずです。例えば「自由」という言葉。文化人類学者は簡単に書きますが、誰のどのレベルの自由のことを言うのかなどは、繊細に検討しないで使ってしまいます。本叢書に寄せるスタイルの文章を書くのが初めての方も、ご自身で人類学や一般向けの医学書などをおそらくお読みになり、それを参考に書いていただいたのだと思います。  そういったことも指摘してください、とは呼びかけたのですが、そこはある意味〝優しい目線〟で見守ってくださいました。バチバチに議論を戦わせようと思えばそうできたはずなのですが……。  浜田 お話を聞いて考えたのは、これも文化人類学的な考え方かもしれませんが、私たちは「パンデミック」という形で一種の共通体験を有しているのではないかということです。先ほど、コロナの経験はそれぞれ多様だということを言いましたが、そうはいっても研究チームの面々は多くの人が大学などの機関に勤める研究者であるわけで、私たちが営む生活には、似通っている部分が多分に含まれていたのだと思います。それに安住するのがいいか悪いかは別としても、澤野さんがおっしゃったことはそうした側面から理解することもできるのではないかと思います。  もう一つは、市川さんのお話から思い出したことなのですが、「客観的な記述を心掛ける」という原則は、実は文化人類学研究の我々にとっても、世代的には大学院で教え込まれたことでした。そこから研究の潮目が変わって、客観性への固執から少し距離を取る流れのなかにある、というわけです。  今回の叢書には寄稿されませんでしたが、本研究の重要なメンバーに歴史学の飯島渉さんという方がいらっしゃいます。彼は『感染症の歴史学』(岩波新書)でCOVIDについて様々なことを書かれているのですが、その記述は、やはり客観性を目指すものでした。それに比べると、人類学者の書く文章には、個人的なエピソードがふんだんにちりばめられています。つまり、両者の間には大きなテンションが認められるのです。このテンションが、今回の共同研究には重要だったのだと思います。  市川 とはいえ、『感染症の歴史学』はですます調で書かれています。おそらく著者が意図的に選択した文体です。2009年に書かれた『感染症の中国史』(中公新書)も敬体でした。ジュニア新書でもないのにどうしてですます調なんだろうと驚いた記憶があります。本人に伺ったことはないのですが、それはきっと、平易な言葉を用いることで多くに人に読んでもらいたいという意識があるからなのでしょう。  その意味で飯島さんは、学術論文の時のような客観性を墨守する立場から少し離れて、多くの一般読者に歩み寄ろうとしているのだと思います。思い返せば、数十年前の歴史学研究には、冒頭で政治的な立場を表明してしまう論文がたくさんありました。90年代にはその反省から客観性が重視されたわけですが、今は更なる揺り戻しの時期にある。主観性と客観性のあいだを行ったり来たりしているのかもしれませんね。  ――様々な形で主観性というものについて考え直すきっかけになった研究なのだと感じます。各人の主観性が問題になるからには、感染症に対する倫理もまた問題になるかと思うのですが、今回の研究は私たちがどのように行動すべきかということにどのような示唆を与えるものでしたか。  西 第4巻で大北さんが取り上げられたヤングは、まさに私たち一人ひとりが、この状況で苦しんでいる人がいることにどのように加担していて、どのような行動を取るべきかということについての哲学を論じた人です。この意味でヤングにおいて、視点の主観客観の対立はありません。  とはいえ、それでは実際にどう行動すべきかというところまでは踏み込んだ議論ができませんでした。幸いにしてこの共同研究はここからさらに五年続くので、一つの課題として取り組みたいと思っています。〔2026年4月から5年間の計画で、学術変革領域研究(A)「感染症人間学の創成とネクスト・パンデミックへの提言」(飯島渉代表)が実施されており、本叢書で提示された課題についても引き続き検討する。〕  浜田 第1巻で人類学者が執筆した論考は、人々がどのような行動をとったかを記述するものでした。それはそのまま、フィールドにいる人たちが持っている倫理や、観察する人類学者自身の倫理に直結します。  また、コロナについて特別に考えるべきこともあります。それは、死者について考えることです。COVIDで亡くなっていった人たちについてどれくらい考えられるか、倫理的な応答をどれだけ維持できるのか、ということが重要なのです。これは、第4巻で「死政治」という言葉で分析されているような、生きながら死んでいる状態に置かれること、あるいは生政治の議論とも密接に繫がっています。  第2巻の終盤で言及されているフレデリック・ケックという人類学者は、Solidarity Be-tween Species(未邦訳)という本において、政治論を発展させる形で生権力の様々な形態を論じています。例えば、司牧権力にとどまらず、グレゴワール・シャマユーの言うような狩猟権力、あるいは「低温政治」と呼ばれる政治のあり方です。コロナにおいて狩猟権力は、感染者および濃厚接触者を追跡する形で発揮されていましたし、低温政治は、低温下でしか保管出来ないワクチンの流通を下支えするものでした。これがどのような倫理性を持ち、どのような権力や政治と繫がっているのかということを、我々は真剣に考えたほうがいい。  人類学者のジュリア・ホバートは、Cooling the Tropics(未邦訳)において、温度管理がいかに植民地主義を可能にするかを論じています。この延長線上にコールドチェーンがあり、生鮮食品やワクチンの流通が成立しているわけです。あるいは歴史学だと、小川眞理子さんの『病原菌と国家』(名古屋大学出版会)が、病原体についての医学理論がスエズ運河の封鎖と食肉輸入と連関していると論じる際に、やはり温度管理というトピックが浮上します。  このように、感染症対策と経済の問題が連関していることを目の当たりにするにつけ、経済構造の維持と再生産に加担して生きている、私たち自身の根深い倫理的責任を感じます。こうした権力は、パンデミックとそれに伴う様々な制限によって初めて生じたのではなく、私たちがこれまでずっと共謀してきたものです。しかも日本で暮らしている私たちは、どちらかというと抑圧者側であり、利益を多く得ています。その倫理性は、マスク着用の是非や、他人に感染させるかどうかなどの次元を超えたところに遍在しているのだと感じます。  澤野 第2巻において、第1章の中村沙絵さんの論考には、ある種の主観性が見え隠れしており、かつ倫理的なことにすごくセンシティブなものでした。現地の様子を客観的に記述する一方、論考の末尾では問いの対象をご自身の方へとぐっと翻しています。  この論考が対象としているスリランカでは、特にパンデミックの初期に非常に強引な施策がとられ、生前も死後も人間扱いされないような人たちがいました。これを単に記述するのみならず、執筆者の中村さん自身が、自分は安全なところにいて死の恐怖から目をそらしていたのではないか、その点で権力に加担する側に回っていたのではないかと、自問されるのです。  市川 COVID―19の流行では誰しもが当事者だったわけですね。今回の研究の動機もそこから始まっています。  第3巻では、飯田淳子さんたちのプライマリケア医についての論文がある種の主観性を最も色濃く表したものだったと思います。もちろん、執筆者はむしろ意識して客観性を保とうと努めています。しかし、この研究はコロナが流行している最中にインタビューを取ったものでした。当然、人間関係の形成なしには難しい。まして、ものすごい大混乱が生じている時に時間をいただいているわけです。アウトプットとしては客観性が保たれていますが、研究手法の根本には非常に積極的な行動が隠れています。  その意味で、明文化されて現れていなくても、研究手法の根っこやその問題意識の根底まで読み込むと、主観性・倫理といった地肌が見えてくるのだと思います。  西 現在は、軍事費ばかりが伸長して国際的な感染症対策に回されるお金がどんどん減っている、グローバルヘルス未曾有の危機の時代です。これを正当化するのは、例えば「国内で困っている人がたくさんいるなかで、外国に回すお金なんかない」というナラティブです。しかし、減らされた分のお金が国内の困窮者に回されているかというと、そんなことはありません。  第4巻のタイトルにもこの思いを込めたのですが、私たちはもう一度、グローバルヘルスを支えてきたところの病気の苦しみに対する想像力を回復したい。世界の人々がこの想像力を再び持つことができるように、少なくともこれが絶えてしまうことのないように、コツコツ研究を積み重ねていかなくてはいけないな、と思います。  市川 過去の感染症に対してとられた対策と、COVID―19の時のそれとが似ているということが様々なメディアで取り上げられました。100年前のインフルエンザ(スペイン風邪)の時のマスク着用や学級閉鎖がその典型です。しかし、それが本当に類似しているのか、ということは改めて考えてみたいと思います。というのも、社会・経済に与えたインパクトは、100年前のインフルエンザとは比較しようもないほど、コロナの方が大きかったのではないか、という議論が経済史の分野で巻き起こったからです。  現在私は、空港や港などでの検疫の問題について、過去と現在とは本当に比較可能なのかということを共同研究のテーマとしています。これを通して、歴史的なものとは一体何なのか問い直し、歴史研究のあり方そのものに踏み込みたいと考えています。  澤野 最近、コロナをはじめとした感染症に関する研究書が次々登場しています。そうした研究を見るにつけ、必ずしも今回の共同研究に加わっていない領域の人たちとの対話の必要を実感します。「感染症の人間学」では、お互いに譲り合ったり、逆に積極的に議論を戦わせたりできますが、その外にいる人たちとどのように交流することが可能かという点には、きっと課題があるでしょう。  そう思うのは、私が文化人類学者でありながら大学では心理学部に所属し、心理学専攻の学生たちとの対話の難しさを経験することがあるからです。「感染症の人間学」という同じ研究プロジェクトの土俵に乗っていない人たちとどのように協働していけるか、もっと言えば同じ社会に生きている人と共に、研究者である私たちがどのように「感染症」という同じ問題に取り組めるか。これは非常に大きな、取り組むべき課題だろうと思います。    (おわり) ★はまだ・あきのり=東京大学大学院准教授・医療人類学。著書に『感染症の医療人類学』、編著書に『再分配のエスノグラフィ』など。 ★さわの・みちこ=立命館大学准教授・文化人類学。著書に『乳がんと共に生きる女性と家族の医療人類学』、編著書に『医療人類学を学ぶための60冊』など。 ★いちかわ・ともお=沖縄国際大学教授・日本近代史・医療社会史。共編著に『暮らしのなかの健康と疾病』『衛生と近代』など。 ★にし・まこと=広島大学大学院教授・医療人類学。著書に『現代アフリカの公共性』、共編著に『心配と係り合いの人類学』など。

書籍

書籍名 都市・移動・感染症
ISBN13 9784868161202
ISBN10 4868161202