2025/06/20号 5面

「真の「映画作家」は消滅するのか」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)395

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 395 真の「映画作家」は消滅するのか  HK 今日の映画批評誌を見ていると、配給会社やDVD販売業者の広告が少なからず掲載されています。結果として、批評家も作品に対して悪いことが言えなくなっているのかもしれません。  JD それは私も承知しています。大きな心配事です。本来、映画批評誌は、映画批評を行う場であるのに、批評することができなくなってしまっている。悪い映画に対して、「悪い」と言うことが難しくなっているのです。映画批評を書く人たちが、自己検閲をしてしまっている。現在私は、どちらかというと新聞の批評欄を読んでいます。稀にですが手厳しい批判もあり、それなりに批評として機能しているからです。それとは異なり、『カイエ』は自分の記事が掲載された時を除き、あまり目を通さなくなりました。本当にスノッブになってしまっているからです。  HK 今の話と違うようでいて似た問題ですが、現在の映画の世界を考えていくと、これから先「映画作家」として顧みられる人が、本当に減ってしまうのではないか。例えば、ファスビンダー、オリヴェイラ、ルノワール、ベルイマンなどは、今後も彼らの映画全体をもってして語り継がれるはずです。最近の作家では、ペドロ・コスタやアキ・カウリスマキも、そうした一部をなすでしょう。ヘルツォーク、ヴェンダース、ジャームッシュにしても――ドゥーシェさんは彼らのことを毛嫌いしてますが――、そのような一面を持っている。アメリカ映画に目を向ければ、コッポラやジョン・カーペンターには、フィルモグラフィーの全体をもってして語らなければいけないところがあります。それがおそらく「作家主義」というものなのだと思います。セルジュ・ダネーの言う「映画=家」や、ヴェンダースの言う「映画の聖域」に近い。ただ、映画によって家を建設していくように考えを発展させていく人も減りました。その結果、映画の聖域に殉ずる作家も減った。こんな言い方をするから、映画批評は「スノッブ」だと、今日の映画研究者や映画批評誌の読者に毛嫌いされるのかもしれません。そこで選ばれる映画作家が、個人の好みが強く反映された恣意的なものに見えるからです。  JD それは当然です(笑)。ヴェンダースの言い分はスノッブですが、彼の言うことにも一理ある。映画の歴史の中には、どうしても無視することができない作家がいます。彼らは、映画そのものに大きな貢献を果たしてきた。自分の映画を見つけ出し、独自の映画を作るのに成功したのです。そんな風にして語り継がれる映画作家は、多くの目の肥えた人々の意見の総体から評価されるものです。もしかするとあなたは好きかもしれませんが、私はヴェンダースもヘルツォークの映画も好きではない。とてもスノッブだからです。しかし彼らの映画を、その他大勢の映画監督の作品と同列に考えることはできません。私が話したくない作品に関しては、私以外に、彼らの作品の魅力を引き出してくれる人がいます。つまり、ひとつひとつの映画の持つ歴史的重要さと個人の好みは別問題なのです。私の本意ではありませんが、私が話さない/話したくない映画でも、重要なものはあります。  HK 僕は、アルベルト・セラに関して、ちょっとした疑いを持っています。今日の若い映画作家の中では――おそらくドゥーシェさんも同意していただけると思いますが――最も才能に溢れた重要な人です。しかし、これから五〇年後、オリヴェイラと同列に語られるとは思いません。現在アドルフォ・アリエッタが置かれているように、アンダーグラウンドな状況に落ちいってしまうのではないか。とても心配です(彼の制作会社の名前は〈アンダーグラウン〉なので、それはそれでいいのかもしれませんが)。同時代では、アピチャートポン・ウィーラセータクンや蔡明亮が、映画批評や現代美術の文脈で名前が挙がり続ける気がします。  JD セラに関しては同意します。私も少し心配しているからです。彼はスペインの映画作家であり、カタルーニャの歴史上おそらく最も優れた映画作家です。しかし、オリヴェイラら前の世代の映画作家と同じようにはなれないのです。それは映画の歴史とも深く結びついた話です。つまり映画を通じて、それぞれの国や地域が、自らの歴史や生き様を語る時代は既に過去のものになってしまったのです。     〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)