戦争映画の誕生
大月 功雄著
佐藤 卓己
戦争映画とは何だろうか。広義の戦闘行為を主題とする映画であれば、インディアン殲滅戦争の「西部劇」、ナポレオン戦争の「革命史劇」、あるいは幕末維新の「チャンバラ映画」も含まれる。だが、それを戦争映画と呼ぶことは通常ない。本書では一八九七年にクレタ島領有を争ったギリシャ=トルコ戦争のニュース映画が嚆矢とされている。シネマトグラフ(一八九五年)の登場以後、映像テクノロジーが捉えた近現代の戦争が対象となる。本書の副題は「帝国日本の映像文化史」である。それは言葉の正しい意味で――メディアは宣伝媒体である!――、日本の戦争メディア史となる。
序章「戦争映画を問い直す」では、戦争映画が人々の戦争に対する批判的思考を奪う役割を果たしてきたことを確認する。その上で、クラカウアーが晩年に『映画の理論』(一九六〇年)で試みた映画のプロパガンダ的性格からの「救済」を、本書の課題、つまり戦争映画の存在論的可能性に重ねている。
日本映画史研究ではいまも戦間期を「暗い谷間」の時代と見なす古い歴史認識と向き合う必要があるようだ。かつては新聞史や出版史とそうだったが、個人による言論統制下の「隠された抵抗」を掘り起こすことに多くのエネルギーが費やされた。こうした被害者史観が瓦解した契機に、戦時ファシズムと戦後デモクラシーの連続性に焦点を当てた山之内靖ほか『総力戦と現代化』(一九九五年)の刊行がある。そこではファシズムもコミュニズムもニュー・ディールもモダニズムが駆動する総力戦体制の下位区分に過ぎない。著者も基本的には同じ視点に立っている。
「総力戦体制論が提起したモダニズムとファシズムの連続性を映画研究として批判的に考察するために本書が着目するのが、「リアリズム(realism)」という概念である。」(17頁)
第一章「戦争映画の誕生」では、日本初の戦争映画『北清事変活動写真』(一九〇〇年)を撮影した柴田常吉にスポットが当たる。柴田は日本最古の劇映画『ピストル強盗清水定吉』(一八九九年)の撮影者でもあり、戦争映画史が日本映画史の起点であることを示している。
第二章「戦争映画のモダニズム」ではシベリア出兵後の厭戦感情を描いた『清作の妻』(一九二四年)の村田実監督がイタリア未来派の影響を受けて戦争映画製作者となるプロセスを追っている。飛行機や戦車を登場させた陸軍省協力映画『地球は廻る』(一九二八年)などの村田作品を厳しく批判したのが、マルクス主義映画批評家・岩崎昶である。戦争映画がスペクタクルである限り、作者の意図がどうあれ、大衆に戦争を審美化させる効果を与える、と岩崎は批判した。今日まで続く戦争映画批判の原型である。ただし、岩崎も参加した日本プロレタリア映画同盟の傾向映画も、戦争映画と同じ監督やスタッフで製作され、いずれも商業的に成功していた。
第三章「戦争映画の美学」はソビエト記録映画理論を紹介した美学者・板垣鷹穂における機械美のモダニズムを扱う。板垣は岩崎などプロキノ活動家とも交流のある非政治的アヴァンギャルドだが、リアリズムの美的象徴として航空機や軍艦を称賛し、文部省や情報局の審査委員として軍事教育映画を奨励した。
第四章「戦争記録映画の時代」では、亀井文夫の陸軍省後援・日中戦争三部作『上海』、『北京』、『戦ふ兵隊』を分析する。ソビエトへの映画留学経験がある亀井をふくめ転向左翼に「抵抗」の痕跡を読み取る努力が繰り返されてきた。確かに、武漢攻略戦を扱った『戦う兵隊』(一九三九年)は「疲れた兵隊」をリアルに映り込ませたため、陸軍報道部により上映禁止となった。だが、この国策映画に「抵抗」の契機を見いだすことは難しいが、「疲れた兵隊」に敢えてナレーションをつけなかったことを著者は重視する。この解説の不在こそが、はじめて戦場を訪れて「他者」と出会った亀井の衝撃を示すものだと著者は解説している。
第五章「戦争映画の技術」では、後年「特撮の神様」と呼ばれた円谷英二の『ハワイ・マレー沖海戦』(一九四二年)などを扱っている。飛行機や軍艦が主人公となる特撮映画において、人間を英雄的に描く劇映画の限界を超えた、人間不在を美化する全体主義の美学は完成する。「「完全な効果」を追い求める技術者としての円谷英二の姿には、戦前・戦中と特段変わりはみられず、むしろ円谷にしてみれば、ただそのあいだに日本がいつの間にか戦争の時代を迎えていただけのことにすぎなかったのかもしれない。」(186頁)
第六章「戦争映画の終焉」では、戦時下にも記録主義リアリズムを追い求めた批評家・今村太平とカメラマン・坂斎小一郎を論じている。戦局の激化は、戦争記録映画の「劇化」を加速させた。戦局がさらに悪化するともはや啓発宣伝映画よりも大衆本位の純粋な娯楽映画のみが求められた。戦争は映画館で鑑賞するものではなく、空襲としてリアルに体験するものになっていたからである。
終章「戦争映画のリアリズム」では、戦後に量産された反戦映画もまた戦時期の戦争映画とネガ/ポジの関係にあることが指摘されている。以上、社会主義リアリズムの記録映画、ファシズム美学に通じるモダニズムの機械美、マス・コミュニケーションの効果を追求した教育映画、再現可能性への挑戦だった特撮映画など、総力戦体制期の戦争映画に流れ込む潮流が今日の映像文化を形づくっていることが明らかになる。
メディア史家である私の視点からすると、戦争映画とは観客席という安楽所から他人の死を見つめる作品であり、心理的に負担の少ない軍事教練メディアである。だが、著者は「カメラが撮影する現実そのものに賭けようとする」映像作家の批判的リアリズムに、戦争映画が戦争抑止力となる可能性を最後まで期待しているようだ。それは映像倫理学として正しいとしても、戦争映画のメディア史として先に進むことができるかどうか。「戦後平和主義者の戦争映画」が続編でどう分析されるかに注目したい。 (さとう・たくみ=上智大学教授・メディア史)
★おおつき・いさお=立命館大学客員研究員・歴史社会学・映像メディア史。論文に「総力戦体制と戦争記録映画」など。一九八七年生。
書籍
| 書籍名 | 戦争映画の誕生 |
| ISBN13 | 9784409100486 |
| ISBN10 | 4409100483 |
