ジェイコブ・Ｈ・シフ

ジェイコブ・Ｈ・シフ 村岡　美奈著 原田　泰 　日露戦争で日本を金融的に援助したアメリカ・ユダヤ人銀行家のシフは、この戦争を巡る様々な場面に登場する。当時、日本銀行副総裁の高橋是清は、シフの協力により外債の発行に成功した。しかし、シフと日本との関係は、日露戦争時だけではない。本書は、日本とシフの関係とともに、ユダヤ人としてのシフの多面的な活動を描いた伝記である。 　シフが、日本政府の２億ドルの戦費調達に協力したのは、ロシアの敗北を望んだからだ。日露戦争のすべての戦費が９億ドルとされている中での２億ドルである。当時の日本は、自前ではすべての近代的兵器を製造できなかったので外貨はより貴重なものだった。シフがロシアを憎んだのは、ロシア帝国政府がロシアの反ユダヤ人迫害暴動（ポグロム）を容認するような行動を取っていたからだ。 　シフの率いるクーン・ローブ商会は、日露戦争以前からアジアや日本に関心を持ち、ロシアが日本によって打ち負かされることを望んだのである。「敵の敵は味方である」という論理により、ロシアを巨人、日本をダヴィデに例えるほどだった。シフは、ロシアが負けることによってロシアのユダヤ人問題の改善につながるかもしれないと期待を寄せていたという。 　多くのアメリカ人は、日露戦争に無関心だったが、アメリカ・ユダヤ人たちはシフを代表として日本を熱心に応援していた。日露戦争でロシアは敗北したが、シフは本当に望んだ結果を得ることはできなかった。混沌とするロシアで、さらに大規模なポグロムが起きたからである。 　ロシアのユダヤ人の中には、ロシアのために命をかけて戦うことで市民権を得る契機になると考える者もいたが、その忠誠はまったく報われなかった。一方、日本は、１８９９年のハーグ会議における戦争捕虜への人道的扱いの規定を忠実に守ろうとした。野蛮のロシアに対し、文明の日本を示したかったからだろう。ロシア人捕虜は民族ごとに別の宿舎を与えられ、労働を強いられることもなく、自由に過ごすことができた。収容所のユダヤ人に広まったのはシオニズムと反帝政運動だった。ユダヤ人のすべての捕虜が自由主義者になり、その４分の３は革命家になったという。慈善家のシフは、この運動にも援助していた。 　シフはリスクを取り、成功した。金利も手数料も高かったため、経済的にも十分な利益を得た。シフの日本国債引き受けは、ニューヨーク金融市場の地位を飛躍的に引き上げるものでもあった。 私は、いまの日本なら、シフの得た利益を攻撃する議論が必ず現れると思う。ところが当時、そのような議論は起きなかった。誰も引き受けてくれなかった日本国債を、ロシアを負かしたいというユダヤ人としての思いから、リスクを引き受けたシフに対して、日本側は恩人として遇した。シフは、１９０５年に勲二等瑞宝章を授与され、１９０６年には明治天皇に謁見し、外国人として初めて勲一等旭日章を授与された。 　シフと日本との関係は日露戦争後も続いた。シフは高橋是清の娘の和喜子を３年間預かった。和喜子は長くシフ家と高橋家の友情をささえた。シフはニューヨークでジャパン・ソサエティを設立し、アメリカで日本人排斥運動が起きた際にも、日本を擁護する姿勢を保った。しかし、日露戦争後、日本の軍国主義が高まり、日本がロシアと手を組んで満洲に特権的地位を得ようとしたことには落胆した。 　第一次世界大戦からロシアの内戦の期間、多くのユダヤ人難民が日本に辿り着いたとき、シフは日本人との人脈を通じて、ユダヤ人難民のための救援活動を支援した。 　シフは、ニューヨークのユダヤ人共同体の中心となり、指導者、慈善家としてユダヤ人の権利を擁護する活動に従事した。さらに、多くの慈善家が寄付だけにとどまっていたのに対し、シフは公共福祉政策についても関心と知識を持ち、その活動が効果的であるかも自ら調査した。慈善対象はユダヤ人のみならず、すべての弱い人々に及んだ。シフは、ユダヤ人がアメリカにおいて、そのアイデンティティを保ちながら暮らせる環境と権利のための努力を惜しまず、同胞からイスラエルの王子と称えられた。非ユダヤ人の富豪も、慈善によってアメリカ社会に自分の名を残したいという希望を持っていたが、ユダヤ人の場合は、ヨーロッパで爪弾きされていた自分たちを受け入れてくれたアメリカに感謝の意を示したいという意味合いもあったという。 　本書は、シフの偉大な銀行家、慈善家、コスモポリタンであり、敬虔なユダヤ教徒としての姿を余すところなく描いている。（はらだ・ゆたか＝名古屋商科大学ビジネススクール教授・経済学） 　★むらおか・みな＝関東学院大学准教授・近代ユダヤ史およびアメリカ・ユダヤ史。共訳に『戦渦の中で』など。