2025/11/07号 5面

「撮影現場全体を演出する映画作家」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)413(聞き手=久保宏樹)

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 413 撮影現場全体を演出する映画作家  JD 映画というものは、集団的企みの結果なのです。たった一人の映画作家が自分の手で映画を作ることもできますが、その場合、映画作家は自分の中で複数に分裂している。「ああではない」「こうでもない」と自己批判が行われ続けるからです。  それはそれとして、カメラマンについての話に戻すと、私は、彼らをルネッサンスの時代の〈職人〉と同様の存在に思っています。芸術家的な一面が確かにあるのです。それぞれが映像に対して、つまり光と長方形のスクリーンに関して考えをもっている。その考えは、決して観念的ではなく、経験に基づく実践的なものです。彼らはカメラとフィルムいう道具を使って考え、自らの考えを表現しているのです。それ故、撮影する映像には独自の考えが含まれています。しかし彼らは、映画の〈作家〉ではありません。その撮影された映像だけでは、映画としては不十分なのです。映画には映像だけではなくて、編集など他の作業も必要となってきます。  その点において、真に映画の作家といえるのは、演出を行う映画監督です。映画監督は、場合によっては、脚本、演技指導、撮影、編集等々、映画に関わるあらゆる作業を統括する必要があります。分業化されていたハリウッドのスタジオにおいてさえ、映画監督はそれらに参与することがありました。ヌーヴェルヴァーグの映画作家は、そうした考えに基づいて、脚本から編集まであらゆる面で、〈映画の作家〉として真に関わり続けることになりました。  映画にとって根本的に重要なのは、映画監督の仕事です。例えば優れたカメラマンと凡庸な映画監督が仕事をした場合を考えてください。もしくは衣装や特殊効果だけが目立つ作品を考えてもいい。そうした映画は見るに耐えません。けれども、優れた監督が――予算の問題などから――、優秀ではないスタッフと映画を作らなければいけないことがあります。そのようにして作られた作品は、実際にたくさんあります。優秀ではないスタッフという言い方は正しくないかもしれません……。それよりも、その時点では無名であったスタッフと言った方がいいでしょう。無名なカメラマンが、優秀な映画作家と働いたことで、自分の世界を見出し、後々キャリアを積み上げていくこともあるからです。  トリュフォーは、しばしば若くて経験のない人々を自分の映画に引き入れていました。彼と一緒に働いた人々は、その後のフランス映画を真に支える存在になりました。それだけではなく、ヌーヴェルヴァーグの世代を支えたカメラマンやスタッフの大半は、映画作家と同じく無名の人々でした。職業的な訓練を積んでいながらも、それ以前の映画とは訣別して、新たな映画作りに積極的に参与した人々です。彼らと同世代のカメラマンでも、職業として商業映画やテレビの仕事を選ぶ人がたくさんいました。ヌーヴェルヴァーグの映画は、彼らの手助けなしには成り立たなかった。映画作家とカメラマンなどのスタッフが、互いに影響を与え合うことにより作られていたのです。  映画作家には考えがある。しかし、その考えを必ずしも実現できるとは限らない。望んだ映像を実現するために、もしくは何ができるのかを知るために、映像の作り方を理解している職人たちの手助けが必要だったのです。それは決してヌーヴェルヴァーグだけに限ったことではなく、偉大な映画作家全てに言えることです。ジョン・フォード、小津安二郎、溝口健二、ジャン・ルノワールに至るまで、彼らのつくった真に優れた映画を見ていると、映画監督とスタッフたちのやりとりの様子まで感じることができるのです。舞台の上の役者が演出されているだけではなく、映画の撮影現場全体が演出されている様子が感じられます。  HK 数年前から、ヴィルモス・スィグモンドやヴィットリオ・ストラーロといったカメラマンについてのドキュメンタリーが増えています。シネマテークでも、ブリュノ・ニュイッテン特集がありました。現在では、カメラマンを映画作家のように、作家として見る動きが出てきています。  JD そうやってカメラマンの仕事がまとめて紹介される傾向は良いことです。なぜならば、今日まで彼らの仕事があまり高く評価されることはなかったからです。     〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)