ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 441
映画の〈快楽〉とは何か
JD ある時代までの『カイエ』には、家族的なところがありました。『カイエ』に書き始めるきっかけが、シネマテークなどの映画館に通っており、似たような趣味を持っているという人たちの集まりだったからです。皆、批評家として活躍する以前から、映画館で顔を見合わせる関係だったのです。ヌーヴェルヴァーグの次の世代の批評家も、本当によく映画館に通っていました。私は彼らのことを、よく知っています。なぜなら、私が彼らを批評の世界に招き入れたからです。その後も、ある時代の同人までは、よく知っています。私たちは、同じ批評誌で、同じ哲学に基づく批評家として、意見交換をすることがあったからです。しかし近年の批評家と私たちは、完全に縁が切れている。それが現在の『カイエ』の大きな問題です。
『カイエ』は、最早『カイエ』とは別の批評誌になってしまっています。創刊時から、長年にわたり関わってきた身からすると、非常に残念に思います。『カイエ』は、世間的にも歴史的にも、私たち「ヌーヴェルヴァーグ」と密接に結びついていました。近年の『カイエ』は、「映画とは何か」について考えることはなく、他と似たり寄ったりの単なる映画批評誌に成り下がってしまっています。
HK それでも知名度のある批評誌として、国際的には注目されています。
JD はい。それが問題なのです。過去の威光を利用しているからです。現在の『カイエ』の選ぶ作品や内容は、論外です。そこには哲学が欠けている。誤ったものであっても、一つの編集方針があれば良しとしましょう……。しかし、今の『カイエ』には、編集方針がありません。そのことに関して、たとえば「十人委員会」の欄を見てもすぐにわかります。趣味の異なる人々で構成されていることが、一目でわかるからです。寄稿している人々は、自分たちのために『カイエ』という名前を利用しているだけです。
HK 今日では、批評誌の編集方針、もしくは特定の個人が、シネフィルに限らずとも、観客に影響を与えることは、ほぼ無いかもしれません。
JD 残念なことですが、そういう時代になってしまいました。本当に僅かながらですが、批評誌や批評家の責任でもあると思います。異なる批評誌であっても、誰もが同じようなことを言っているからです。そして、映画のことを全く理解していない書き手が増えた。彼らには、根本的なところで、映画に対する興味がない。つまり映画の快楽というものがわかっていないのだと思います。
実は、それが私たちと近年の批評家の大きな違いです。彼らの批評は、非常に客観的なものになっている。そして、私たちの批評は主観的なものである。私たちは、私たちの責任において批評を行ってきました。私に関して話をするのであれば、私の批評の出発点は、何よりも私の受けた印象に基づくものです。作品を気に入ったか、気に入らなかったか。何が好きで、何が嫌いであったのか。もし好きな作品でなければ、話すだけ無駄です。そこに、映画を話すことの快楽はないからです。嫌いなことをわざわざするほどに、人生は長くありません。
HK どんな作品に快楽を見出すのですか?
JD その質問は、「映画とは何か」という問題と強く関わっています。本当に面白い映画は、単なる暇つぶしのためのものではなく、芸術である。芸術における快楽とは何か。それは、絵画であれば、視覚的なものです。画家が自身の感性に基づき思考し、筆を動かし、一つの絵画ができます。その絵画は、鑑賞する人に何かを語りかけてくる。あらゆる絵画は、そうした動きの中で生み出されています。子どもが描いた絵でさえ、そこにはちょっとした思考があるのです。しかしながら、ある種の絵画は、他の絵画以上に何かを訴えかけてくる。それはもしかすると、扱っている題材のためかもしれませんし、絵の構成、色彩などなどの技術的な面からくるのかもしれない。あらゆる要素が、複雑に絡み合った結果として、現れてきます。そこには、画家の「仕事」が見出せるのです。 〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
