2026/03/06号 2面

戦後の日本社会に影響を与えた「古典」を読む

「東大生」鼎談=『戦後の日本社会に影響を与えた「古典」を読む』(読書人)刊行を機に
「東大生」による鼎談 <新しくテクストを開く「誤読」の可能性> 『戦後の日本社会に影響を与えた「古典」を読む』(読書人)刊行を機に  昨年11月、弊社より『戦後の日本社会に影響を与えた「古典」を読む 現代社会と民主主義を考えるための10講座』(読書人)が刊行された。立教大学で行われた同名のオムニバス講義を書籍化した本書は、様々な人文系研究者が若い学生に向け、「古典」を通して思考することを伝えるものだ。  そんな本書が東京大学の駒場キャンパスで話題になっているという。そこで、東京大学に現在学ぶ、あるいはかつて学んだ3人の学生――教養学部1年の山下祐己加さん、教養学部4年の小野寺海斗さん、早稲田大学修士課程1年(昨年度まで東大教養学部に在籍)の小原瑞季さん――にお集まりいただき、本書をめぐってお話しいただいた。(編集部)  小野寺 本書には大きく分けて三種類の論考があるように思います。一つはテクストに刻まれた戦後日本という歴史性を読み解くもの。一つは戦争以前に書かれたテクストの戦後的な受容史。そしてもう一つは古典を現代の視点から再解釈する講義です。皆さんはどのように読まれましたか。  山下 私は、複数の章に登場する「誤読」という言葉が、本書のキーワードだと感じました。例えば第4講の、書の評価者とは最初の誤読者であり、その誤読をさらに読者が誤読していく、その連鎖が書物のあり方なのだという議論。あるいは第5講で指摘された、小林秀雄が熊沢蕃山の「本より」という表現を「本より」と読んだ「意味ある誤読」。そして第8講、トマス・クーンがパラダイム論の混乱を整理するために釈明した言葉を、批判者であるポパー学派らの人々は「パラダイム論を取り下げた」などと誤解し、鬼の首を取ったように批判を浴びせたというエピソードです。  前二者と後者の、よい誤読と悪い誤読の違いとは何なのでしょうか。悪意の有無と考えることもできますが、ポパー学派の人々が悪意を持って曲解したとは限りません。私も読書していると、自分の解釈に不安を覚えることがありますから。  小原 「誤読」と似ていますが、私は「立場の違い」を軸にしました。本書で私が最も惹きつけられた第2講では、三島由紀夫『豊饒の海』の時代性が論じられていますが、同時代に生きていても人によって見ている世界は大きく異なるでしょう。だからこそ、個々人がどのような立場でどのような経験をしたのかが知りたい。時代性以上に、三島や講師の小林康夫さんの個人的な経験に根差した文章だからこそ、引き込まれたのだと思います。  また、第10講で少しだけ触れられたLGBTQ+の権利運動などは、日頃興味を持っているトピックであるだけに、講師の小松美彦さんや彼の論じるフーコーとの立場の違いを感じました。性的マイノリティの権利運動は、講師がフーコーに引き付けて言うように「解放がかかっていると信じて」の運動なのでしょうか。  むしろ運動の当事者は、権力に囲い込まれることを承知の上で、現実に生じている困りごとや不利益を解消することに高い優先順位をつけているように私には思われます。マイノリティが権力の中に進んで取り込まれることが批判されるなら、もとより権力の中にいるマジョリティはなぜ批判されないのか。こうした立場の相違が誤読にも繫がるかもしれませんね。  山下 そのお話からは、アメリカの公民権運動でも立場の相違があったという史実を想起しました。既存の体制と融和する人種融合主義か、黒人で国家を樹立するブラック・ナショナリズムか、という対立です。  小原 社会運動から連想すると、フェミニズムの歴史の中でも、男性社会に迎合的な潮流があったり、それを批判して男性社会から自立することを目指す潮流があったりしました。これも立場の相違と言えます。  マイノリティの権利運動の見逃すべきではない側面は、就労や医療、社会保障の場面に代表される、実生活での不利益に基づいていることにあります。フーコーらの権力批判は、そうした権利運動の切実さを「誤読」し、透明化してしまうように思いました。  小野寺 確かにそうかもしれませんね。とはいえフーコーの肩を持つなら、彼の議論の一番の意義は、政治的問題に有力な分析視角を提供したことにあるでしょう。具体的な政治運動と結合させることは少し別の問題として捉える必要もあると思います。 小野寺 それではまず、「誤読」のポジティブな側面について目を向けたいと思います。「よい読み」とは、新しくテクストの可能性を開くような読みだと言ってよいでしょう。私の卒論は大江健三郎論でした。大江は、「日本で最も多読の人であると同時に、最も多く誤読をした人でもある」などと言われることがあります。この意味で、大江の小説は誤読に支えられて作られてきたと私は考えています。  また、大江研究における動物論に触れてきた者として、私は小原さんとも違う観点から第10講を読みました。講師の小松さんは「人間の尊厳」を持つとみなされる者とそうでない者との峻別こそが生権力の核心にあると述べ、そこで尊厳を持たないとみなされた者に行使される暴力を主題化していましたね。  しかし、理性や良心によって区別することなく全ての人間にその尊厳を認めていく――これだけで本当に問題は解決するのだろうか、とも思います。むしろ「人間ならざる者」への暴力が依然として温存され、ふとした拍子に、「人間の尊厳」を持たないとみなされた者は危険に晒されるのではないか。  動物を含め、広く苦痛を感じられる存在への暴力を直視することは、動物を守ると同時に、私たち人間の命を保証することにも繫がっていくはずです。フーコーは人間集団を家畜の群れのように管理する「司牧権力」を分析しましたが、これを文字通り「動物」にまつわる権力として「誤読」する可能性もあるかもしれません。  小原 第10講は、人間の中で線引きを行うことに批判的な視線を投げかけるものでしたが、人間と動物との線引きにも問題があるということですね。  山下 具体的な問題に敷衍してみます。私たちは、普段口にする食べ物が生きていた頃のあり様を知りません。ですが、一時期話題になった道徳の授業のように、牛や豚などに名前を付けて毎日世話をしてしまったら、それを食べることはもうできなくなると思います。つまり、人間集団を線引きして限られた人に庇護の手を差し伸べる生権力の装置を批判するとき、これを極限まで徹底するなら、動物や環境まで人間と等しい形で庇護しなければならなくなる。  生権力批判の重要性には共感する一方で、その論理を日々の生活にまで徹底しようとすると、限界に突き当たるのを感じます。人間は仙人のように霞を食べて生きていくことはできませんから。  小原 問題を自分事として実践することには難しさがありますよね。思えば、私が第2講に興味を持ったのは、講師自身が「『豊饒の海』という作品を受講生に推薦してよいものか」と葛藤し、それをそのまま学生に伝えていたからでした。生権力批判や文学など、容易に答えの出ない問題に対して葛藤し、そして「誤読」をする。そうした体験は、しかしそれ自体で価値を持つのではないかと思います。  小野寺 続いて、「悪い誤読」について考えたいと思います。よい読みが新しくテクストの可能性を開くものだとするなら、悪い読みというのは、元の自分の考えや既存の学説を補強して、それに戻ろうとする読みではないでしょうか。これを避けるためには、心を閉じた状態で読書するのではなく、開いた状態でテクストに向き合うことが必要になる。  山下 しかし先に述べたように、誤読をしてしまう人も、自説を補強しようとわざと文章を曲解するのではないとは思います。第8講のポパー学派の人たちは無意識のうちに、自分たちの学説が間違っているはずがないと考えてしまったのではないでしょうか。  小原 その意味でSNSなどのアルゴリズムは最悪ですよね。無自覚のバイアスをどんどん補強する方向に働いていますから。自分と同じ意見ばかりを求めるのではなく、少々耳が痛くても自分の心を開くように努力することは、昔以上に求められているように思います。  山下 以前、大学の授業で、ヒトラーの『わが闘争』も一度は読んでみるといいと言われたことがあります。無論、批判的に読む訓練のためです。心を開いて、よい読みをするカギは「批判的に読む」ことにあるのかもしれません。  ……でもそれが難しいですよね。著者の主張は間違っているかもしれないと疑いながら読んでいたら、むしろポパー学派のような誤解に陥ってしまうかもしれない。批判はエッセンシャルではあるけれど、それだけでよい読みができるわけではないですね。  小野寺 テクストを読む態度の一つに、それが正当で倫理的なことを語っていると信じる姿勢があると思います。時代の淘汰を受けた古典を信じることは比較的容易です。しかし、世の中にあるのはそんな本ばかりではありません。  山下 もちろん、倫理的でない書物からも学べることはあるかもしれません。『わが闘争』はナチスによるプロパガンダの道具として使われました。文章自体は情熱的で、説得力があります。そこを批判的に読んで、レトリックの分析に供することはできるでしょう。  しかしそんな批判的な読み方ができるのは、ヒトラーという「悪人」が書いた本だとわかっているからという側面があります。著者を伏せられていきなり読んだら、気づくことができるでしょうか。  小原 読書においては、本の内容自体が絶対的に重要なのではなくて、新しい考え方や視点が得られればそれでよいのかもしれません。言い方はよくないですが、本はそのための手段にすぎないとも言えます。  とはいえ、現在進行形で出版されている本はどのように読んでいったらいいのでしょうか。古典は時間の波に揉まれてある程度の質が担保されていますが、現代文学などにはどんなスタンスを取るべきなのでしょう。  小野寺 近年の芥川賞作品を集中的に読んでいるのですが、中には倫理的に危ういと思われる作品も見られます。例えば2023年下半期に受賞した九段理江「東京都同情塔」(『新潮』2023年12月号)は、社会に「クリーンな」言葉が蔓延って、言葉狩りめいたことが行われる近未来をディストピア的に描きます。本作の「ポリコレ」を問題視する批判意識に、私は危険なものを感じますが、世間的には評価されています。  しかし、この2023年芥川賞は興味深い回でした。上半期に受賞したのが市川沙央「ハンチバック」(『文學界』2023年5月号)だったのです。「東京都同情塔」が、安全地帯にいるマジョリティが社会の行く末を眺めているように見えたのに対し、市川の作品は、多数派への鮮烈な異議申し立てを含んでいると感じました。作者自身、先天性ミオパチーという身体疾患を抱えるマイノリティです。現代的な作品にはこうした対比が見られます。  山下 それを踏まえると、ロラン・バルトの言う「作者の死」の観念を引き受けて、作品に込められた作者の意図以外の示唆を引き出す読み方なら、危うさを含むテクストも有意義に読解できるのかもしれません。例えば、「問題」のある価値観を持つ人の世界観を知るサンプルとして、テクストをメタ的に受け止める読み方です。  とはいえ、この世のあらゆるテクストから、本書『「古典」を読む』で体現されているようなコクのあるメッセージが引き出せるかといったら、それは難しいですね。テクスト側の限界がある。かといって、「質の悪い」本がその粗悪さから規制されるようになってしまうと、有川浩『図書館戦争』(KADOKAWA)のような世界になってしまいます。――しかしながら、差別的なメッセージのある本をそのまま出版するのはまた別の問題に繫がりかねません。  小原 まさに2023年に、『あの子もトランスジェンダーになった』という翻訳書が、「差別や偏見を助長する」として出版社のKADOKAWAへと抗議が殺到し、出版取りやめになったことがありました〔編集部注:翌年、産経新聞出版より『トランスジェンダーになりたい少女たち』として刊行〕。  同書には事実と称して明らかな誤りが含まれているなど、出版倫理を問われるような内容であったために批判がなされたわけですが、同様の抗議をフィクションである小説に対して行うことには問題があるでしょう。とはいえ、明らかなデマや差別的な内容を含む本は出版されてほしくないと思うのも事実です。どう折り合いをつければいいのでしょうか。  山下 あらゆる読者が批判的読解を十分に行える理想的な世界であれば、誤りの含まれる本もすべて出版されてよいと思います。けれどこの世界はそんなユートピアではないわけで、多くの読者は熟読するよりむしろ消費して終わりですよね。  小原 私自身、質の悪い本と出会ってしまったとしても、「折角時間をかけて読んだのだから」と何かしらの学びを探し、それで満足してしまうことがあります。批判的に読むべきだと思ってはいるのですが、つい受け身で消費してしまって……。  山下 翻って古典に戻ると、単に自分の学びに資するかどうか以上に、他者に新しく何かを語りたくなる本ではありますよね。そして、世代を超えて語られて影響が持続し、インスパイアを与え続ける。内容的な倫理性から離れたところで、長きにわたり多くの人の思考を刺激するのが古典なんだと思います。  小原 私は夏目漱石『こころ』が好きなのですが、その理由は自分にもよくわかりません。けれども、歳を重ねるごとに折に触れて読み返してしまう。そういった〝なぜかわからないが読ませる力〟が古典にはありますね。  小野寺 学生作家としてデビューした大江健三郎は、大学の友人に「ドストエフスキーの小説があるのに、なぜ君は小説を書くのかね、それは無意味な労役じゃないか」と聞かれます。対して大江は、「やはり同時代の人間にたいして、わたしはこのように生きていますと語りかけたいからなのだろう」と答えるのです。  また、『「古典」を読む』第2講では、三島の小説の優れたところは歴史性が刻印されているところだと述べられます。今生きている時代の歴史性を読者に突きつける――そんな同時代性が刻まれているからこそ、古典は古典たりうるのかもしれません。  山下 古典は英語でclassicと言いますよね。この語は「基本」というニュアンスも含んでいます。例えばThat' s classic!と言えば、「それはよくある意見だよね」という意味になる。  その点で、人間の根底的な何かに触れるような書物は、昔の本に限らずとも、古典的な価値を持ちうるのではないでしょうか。だから、古典と同時代性とはどこかで繫がっているように思います。(おわり)

書籍

書籍名 戦後の日本社会に影響を与えた「古典」を読む
ISBN13 9784924671980
ISBN10 4924671983