2025/05/02号

近代日本における外来野菜の普及:キャベツとハクサイの大衆化

 先ごろ、私は幼年時代を描いた自伝を刊行したのだが、本書を手にして、子供のころの食卓に、必ずといっていいほど白菜の漬け物が出ていて、醤油をつけて、柔らかい部分を好んで食べていたことをすっかり忘れていたことを思い出した。最近では、白菜といえばキムチにつけて食べるもののような気がしていたし、スーパーなどで見る白菜の漬け物には必ずトウガラシがついていたが、うちで食べていたのはトウガラシはなかった。  驚いたのは、本書は白菜とキャベツを対象としているが、キャベツはともかく、白菜が近代になって中国から入ってきた外来種だとは知らなかったことである。日清・日露戦争で大陸へ渡った日本人が白菜を見て美味なことに驚いたというが、いざ日本で栽培しようとすると、カブやツケナ類と同種であるため別の品種の花粉が受粉してしまうことが多く、次の代で白菜でなくなったことや、それが原因で明治維新まで白菜は移入されなかったのではないかといったことは、板倉聖哲のとても面白い本『白菜のなぞ』に詳しい。そのため初期に宮城県で白菜を育成しようとした人は、離島の松島で、他のアブラナ科の植物を排除して栽培し、白菜の栽培に成功したという。  白菜は、農学や食文化論で研究の対象になるが、ここでは地理学者が対象にしている。おかげで、岩手甘藍(キャベツ)、仙台白菜といった特産物のことや、茨城県西部が、第二次大戦後は白菜の中心的な生産地であったことが分かり、その土地で生まれ育った母が、白菜の漬け物を常時食卓に上せていたことが、学問的裏付けを得て、私の子供時代が説明されたようにすら感じた。  私は小学生の頃「社会科」が苦手だった。歴史になるといいのだが、それ以外が分からなかった。そしてこの本が描いているのは、私たちの食べるものがどのように生産され、出荷されて食卓へ届くかということで、これがまさに子供の時分からなかった「社会科」なんだな、と感じた。「本書では、外来野菜の普及は、生産と消費を両方の核としつつ、その両者を結ぶ流通や、生産の前提となる育種、消費の内実としての加工・調理などを含めた種々な要素が相互に関わりながら展開する、との考えに立脚し」たという。  たとえば233頁には「1927年当時の東京では、品質の優れた結球種のハクサイが宮城などの遠隔産地から入荷されるようになった結果、ツケナ類に対する「衆望」つまり消費者のニーズが、ハクサイに先行して普及していた非結球種のサントウサイからハクサイへと急速に移りつつあったこと」が分かると述べられている。こうした分析から、私たちが何となく日本古来のものと考えていた食卓の白菜が、近代になって普及していった経緯が分かるのである。またその食卓にしてからが、近世以来の箱膳のような個別膳から、ちゃぶ台のような全員が一つの卓で食べる方式に変わって行ったのが大正期だったことが分かる。  私は「社会科」で教わるような、特産物が何かとか、労働がどのような仕組みで産物を生み出しているのかといったことを理解するのが遅かった。それらはしばしばマルクス主義の文脈で経済学として語られることもあるが、それを地理学のような、地政学との関係で帝国主義的だと今でも一部では誤解されている分野での成果として知ることに面白さを感じる。  また私には、キャベツの品種である「バンダーゴー」とか「サクセッション」というのが初めて聞く名称だったが、これらをキャベツ生産者は日常的に使っているわけで、そういう名詞に出会うことが、こうした専門書を読むことの喜びの一つだと私などは感じるので、それはフーコーとかデリダとかいう名前に遭遇するのとはまったく違う喜びである。  地理学の専門書である本書では、岩手、宮城、茨城、愛知など特定の県での白菜やキャベツの生産と流通、それの東京における消費について詳しく書いてあるが、西日本のことはほとんど書かれていない。これは実証的学問においては普通にあることで、すべての地域について悉皆調査をするのは個人ではできないので、後人の調査に任せるのである。学問というのは、ある時点で一切を闡明するというわけにはいかない。そういうことも私などにはうすうす感じられていたことだが、改めて感じ、読者の理解を求めたいと思ったりもした。なお本書は横組みだが、そのためかルビがなく、「府金儀平(ふがねぎへい)」「御調郡(みつぎぐん)」などの人名・地名を改めて調べなければならなかった。一考を促したい。  農学の分野へ地理学者として踏み込む心得を、好きだという十七代中村勘三郎の、兄の初代中村吉右衛門の「型」と義父で師匠にあたる六代目尾上菊五郎の「性根」の板挟みになぞらえて語るあとがきが微笑を誘う。(こやの・あつし=作家・比較文学者)  ★しみず・かつし=筑波大学人文社会系准教授・食と農の歴史地理。編著に『岩手キャベツ物語玉菜・「南部甘藍」から「いわて春みどり」まで』など。一九七八年生。