鼎談=吉沢 文武×柏端 達也×一ノ瀬 正樹
<死んだら人はいなくなるのか?>
『死の形而上学』(慶應義塾大学出版会)刊行を機に
英語圏の哲学界を中心に盛り上がりを見せている「死の哲学」。その形而上学的核心を直視した『死の形而上学 この世界からいなくなることについて』(慶應義塾大学出版会)が、吉沢文武氏・柏端達也氏の共著で上梓された。死の害悪についての「二つの直観」を措定して死そのものを論ずる本書について、著者の二人と英米哲学の第一人者である一ノ瀬正樹氏に、腹蔵なく議論していただいた。(編集部)
吉沢 本書の議論は、アメリカの哲学者トマス・ネーゲルが提起した議論に立脚しています。1970年に発表された、まさに「死」と名付けられた論文です。些か誇張気味に言えば、古代ギリシアのエピクロス以来二千年ぶりに、死の問題を純粋な形で蒸し返すものでした。『コウモリであるとはどのようなことか』(永井均訳、勁草書房)に収録されています。
エピクロスは、「われわれが存在するとき、死はまだ存在せず、死が存在するときには、われわれはもう存在しない」としました。死によって私たちは存在しなくなるということを根拠に、死の害悪や不幸を否定したわけです。しかしネーゲルの出発点は、「それでもやはり死は悪いものだろう」という直観でした。死によってその人が存在しなくなることは当人に害悪を与える――これを私たちは〝第一の直観〟と名付けます。エピクロスの論証と第一の直観は、死が存在の終焉とする「終焉テーゼ」を共有しています。
しかし他方で、まさにこちらもネーゲルの著作『どこでもないところからの眺め』(中村昇ほか訳、春秋社)で述べられる考え方なのですが、私たちが〝第二の直観〟と名付けるものも認められると思われます。死はその人に害を与えるというより、むしろ善いとか悪いとか述べることさえ無意味にしてしまうような何かだ、という考えです。これはアリストテレス『ニコマコス倫理学』や『エウデモス倫理学』にも見られ、伝統的な論拠を見出すことができます。本当の意味での不在を扱うので、私たちは「終焉」と対比させて「消滅」と呼びます。
死の問題におけるネーゲルの重要性は突出しています。第二の直観に関して第六章で検討するサミュエル・シェフラーも、ネーゲルから議論を引き継いでいますから、みんなネーゲルが用意した土俵の上で哲学をやっているのです。ちなみに、いわゆる大陸系/分析系という本邦では顕著な対立がありますが、第二の直観を扱う場面においては両者が幸福な調和のもとにあると言えるのも特徴です。
さて、序章と第一章で二つの直観にまつわる問題を整理したのち、第二章で「死はいつ悪いのか」、第三章で「死はなぜ悪いのか」を検討しました。前者について私たちはネーゲルが無時間説を主張するのと異なり「死後説」という考えをとりますが、死の悪については、彼の中心的な見解である「剝奪説」――当人が死ななければ得られていただろう善が、現実の死によって剝奪されるゆえに死は悪である――によって説明するほかないだろう、と行論していきます。
一ノ瀬 まず、今回ご本を読んで、大いに刺激を受け、学びました。ありがとうございます。さて、剝奪説には説得性がありますね。例えばクリフォード・ブラウンというジャズ・トランペット奏者は、25歳の若さで雨の中の交通事故で亡くなり、世界に衝撃を与えました。これは、生きていればもっとたくさんの作品を生み出したのではないかと人々が考えたからでしょう。
柏端 それは、人類にとっての不幸というより、ブラウン自身にとっての不幸でもあると言いたくなりませんか。
一ノ瀬 そこは難しいね。私は人称の区別をまず初めに行います。剝奪説は他人称の語りで、エピクロス説は一人称の語りだというわけです。ならば、両者を同じ土俵に立たせることにあまり生産性はないのではないですか。
柏端 ただ、〝他者の目から見て「ブラウンにとって不幸だった」〟という言い方はできますよね。一人称的な死では害悪を被る主体が不在になるので、「ポイントの期限が切れていて私は不幸だ」のようには言えませんけれど。入れ子構造になっていますが、これが認められるなら剝奪説を土俵に乗せても無理はないように思われます。
一ノ瀬 そうですね。しかし本書に人称の区別はあまり使われません。
吉沢 はい。とはいえ第六章は「自分自身が将来いなくなる」ということへの主観的な恐怖を論じます。その意味で、第二の直観が扱う主観的恐怖を一人称的、第一の直観=剝奪説が扱う客観的判断を三人称的と置き換えても構いません。したがって、形而上学的な意味での「害悪が何に帰属するか」という問題においては、一人称的な視点は活躍しません。一人称は悪に関してではなく、「自分はいつか死ぬ」という理不尽さをどう飲み込めばいいか、という観点において役割を持ちます。
一ノ瀬 しかし、それは理不尽なのですか? 第二の直観に私は非常に強く違和感を抱いています。どうしてこれが直観的に正しいんだろう? 第一の直観は文法的な問題ですよね。言語哲学的に掘り下げれば怪しさも出て来うるでしょうが、ひとまず認めてよい。しかし第二の直観はどうか。
私は授業などで死の問題について、実験哲学のアンケート的なことを行うことがあるのですが、学生たちも私も、死それ自体ではなく、死にゆく過程の痛みや苦しみを恐れているのです。確かに稀に、自分の存在の消滅が恐ろしいと語る人もいます。でもほとんどの人は、例えば溺死の際に水を多量に飲み込んで恐ろしい苦しみを味わうこと、これが怖い。
柏端 一瞬で苦しみなく死ぬのはいい?
一ノ瀬 そのような方法があるなら苦しみなく死ぬことを選ぶでしょう。
柏端 確かに、水に沈められて死ぬのと痛みなしで死ぬのを比較すれば、後者を選ぶと思います。ですが、生き続けることと痛みなしの死なら、前者を選ぶのではないですか。
一ノ瀬 おっしゃる通り第二の直観の意味で死を恐れる人もいます。でも、少ない。私が臆病なのかもしれないけれども、死の恐怖は「痛い、苦しい」ということに向けられている。
吉沢 第二の直観の方が背後に隠れているという意味ではその通りだと思います。本書に言う第二の直観を論じた論文は散発的に発表されているものの、どの論者も確かに表現にすごく苦慮しています。フィリップ・ラーキンの詩「オーバード〔Aubade〕」はよく引かれますね。私たちも注で、ミゲル・デ・ウナムーノによる表現を引用しています。こうした文学的・修辞的表現も併せて授業で紹介すると、学生たちもなんとなく意味を了解してくれます。
一ノ瀬 言っていることはわかりますよ。しかし、私の経験からするとピンと来ない。26歳の時に扁桃腺の切除手術を受けました。全身麻酔を受けると、時間が経過した感覚はあるものの、それよりもものすごい痛みの方が目立ちました。目覚めるまでの間には、まったく何もありません。自分が無くなるというのはこういうことなのかなと想像しました。そうだとすれば、無になることは何も怖くない。
柏端 そうした直観が、伝統的なヘドニスト(快楽主義者)の形而上学的直観なのでしょう。対するウナムーノはまさに実存主義の哲学者で、このように語っています。〝幼少期から地獄がいかに恐ろしいか聞かされてきたが、それは全然怖いと思わなかった。真に私が恐れるのは自分が死んで消えてなくなってしまうことだ〟と。貧しい存在であるこの私が死ぬことこそが嫌なのであり、そこは理屈をこねるところではないのだそうです。彼特有の反理性主義が表れている箇所ですね。同様の例としてトルストイが引かれることもあります。ネーゲルの『どこでもないところからの眺め』でも雄弁に語られます。
一ノ瀬 彼らは若干考えすぎなのかもしれないですね。私の場合、意識が飛んでしまう未来を想像しても何も感じません。むしろ目覚めたときの喉の痛みの方が重大事でした。それでありながら、時間が経ったという実感もあったので、「死というのはこれが連続することなのか」と想像したのです。本当のところはわかりませんけれどね。
剝奪説について、私は最近の論文で三つの素朴な疑問を例示しています。「長寿の人が大往生を遂げたときにも何か益が剝奪されたのか」「安楽死を望んでそれを遂げた人も益を剝奪されたのか」「より長く生きても、益より多くの害や苦痛を被った可能性がある」といったものです。
柏端 ネーゲルならば、「生そのものの価値」を持ち出すことで回答するでしょう。苦しい人生でも生そのものには価値がある。これを根拠づけるに、ネーゲルは「コウモリであるとはどのようなことか」の一人称的な視点に訴えます。ひとたび生を享けたなら、我々は〝「永遠に生きる」とはどのようなことか〟を理解してしまうと論じるのです。
一ノ瀬 しかし私は『死の所有』(東京大学出版会)で、「死ぬことができないなんてそれは恐ろしい」と論じ始めました。死なないでいることを想像したり、不老不死伝説を聞きかじったりすると、不死であることの恐怖がじわじわと湧き上がってくる、というわけです。
それでいて、「しかし死ぬこともまた恐ろしい」とも続けます。「呼吸が苦しくなり、胸が激しく痛む……」。私は死について、物理的な方向から考えるクチなんです。
柏端 経験を非常に重視される。
一ノ瀬 経験論者ですから。
吉沢 一ノ瀬先生も含め死の哲学では、death(死そのもの)とdying(死にゆく過程)とbeing dead(死んでいること)を区別しますよね。とすると、死に際しての苦しみはdyingに相当する、すなわち生きている間に起こることなのではないですか。私たちの本の主題は、あくまでdeathの話なので、議論がすれ違う。
一ノ瀬 それらの境界が実は不分明だということは措くとして、今回の本もまた最後は「死の恐怖」を論じているでしょう。それは生きているときに感じていますよね。
吉沢 しかしその対象は未来にあります。恐怖として感じられるものは、死の害悪とは全く別のものです。そしてそれは普通の恐怖にとどまらない、ある種の理不尽さ、理解不能性に対する恐れです。
一ノ瀬 そこもわからない。死の恐怖というのは、死の形而上学ではなくて、死に対する心理学的な問題なのではないですか? 非存在の未来を形而上学的な理念として前提して、それを想像して恐れるのなら、その恐怖は完全に病理的な症状の範疇に行き着くでしょう。いわゆる「タナトフォビア」ですよね。それは間接的に死に関わってはいますが、実態は心理学の領域の主題なのではないでしょうか。
だから科学的にも研究できますよね。死のことを思ったときにぶるぶると震えて恐怖心が湧くとします。その際、例えば脳内物質や血圧の変化を測定することが可能です。しかし、それは死そのものではなく、死という概念をめぐって生じた心理的な現象の探究です。
柏端 もちろん、どのように生じるどういったタイプの感覚なのかといった事柄は心理学的な議論です。自分の死は経験できないので、永遠に概念のままです。しかし、死を対象にとることはできます。
一ノ瀬 その対象は「死それ自体」ではなく「死の観念」なのではないでしょうか。例えば二億年後の地球について考えるとき、確かにそれは二億年後のことについて議論していますが、あくまで生きている私が勝手に語っているというだけで、二億年後そのものについての議論ではないじゃないですか。それと同様、未来の死そのものについての議論もできないのではないですか。
私はしばしば死刑について論じます。犯罪と刑罰の最も基本的なスキームは、誰かが人に害を与えたとき、社会がその加害者に害を与え返す、という応報の図式です。このとき、殺されることによって完了する「死刑」という刑罰は、エピクロス説に従うなら、害を被る人がいなくなるので、刑罰の概念からずれてしまうと考えられうるわけです。しかし、これを会議の場で言及すると、決まって次のような反論が返ってくる。「死刑囚が刑場に連れていかれるときに感じる恐怖心が死刑の害なんだ」と。しかしそれは間違っています。刑の執行を告げ、恐怖心だけ味わわせて、おしっこを漏らさせる……そうすれば、実際に殺さなくても死刑を執行したことになってしまうからです。
第二の直観の議論には、これと似た問題性を感じます。死への恐怖を死と重ねてしまうと、死の形而上学ではなく死の心理学になってしまう。
柏端 今の一連の議論は非常に大事です。というのも、死への恐怖は、死という概念への理解さえあれば自然に誰でも感じてしまうことの証明になっているからです。
しかし、恐怖は志向性を持っています。何についての恐怖か、ということです。それをしばしば我々は間違えることがある。つまり、死が怖いといったときに、例えば溺れるときの苦しさのようなものに間違えて帰属させてしまっているのではないでしょうか。死にゆく過程の苦しさ以外にも、恐怖の源があるだろうと示したいのです。これこそ、第二の直観で名指されるところの、本当に自分がいなくなることの恐怖です。
そのため、第六章の議論は、第二章から四章まで論じてきた死そのものがもたらす害悪の話では全然ないわけです。大きな転換がここにはあります。
一ノ瀬 しかし、例えば強風や豪雨による崖崩れに見舞われたとして、「自分の命はここで終わりだ」と恐怖心を抱くことは死の恐怖の一つだと思います。ですが絶対に死ぬとは限りません。生き残ってしまった場合、さっきまで感じられていた死の恐怖は、本当は死の恐怖ではなかったということになるのですか。私は、「死の恐怖」と「死そのもの」とは互いに独立だと理解しています。
吉沢 しかし、死は志向的対象なので、真理性は免除されます。実際に死が起こってしまう必要はありません。恐怖の対象は、その当人が実際に経験する死でなくてもよい。
一ノ瀬 多分、私のスタートラインがお二人とは違うんですね。私にとっての死は、死体が持つリアリティから始まっていますから。対してお二人は、死んで無になってしまうことを想念した時の恐怖でしょう?
柏端 ただ、実際に我々の周囲では人がいっぱい死んでいます。これが自分にも起こるだろうと帰納的推論を働かせることは可能です。
一ノ瀬 それはわかりますが、その推論の帰結は「死の観念」であって「死それ自体」ではないでしょう。
柏端 死刑の例に立ち返るなら、死刑の持っている意味や問題点は、本当に死んでしまうことにありますよね。このことへの着目は、私たち二人の立場を擁護することになりませんか?
一ノ瀬 しかし、例えば秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大元死刑囚はどうですか。彼は死刑になりたくて事件を起こしました。死にたいわけですよね。そういう例外はあるけれども稀だということで、第二の直観を出されているのですか?
柏端 いや、やはり死にたい人にとっても、死は理不尽だと思うんですよね。多分その理不尽さにも人は魅せられうる。
――第六章注50が示唆的だと思います。苦しいばかりの人生の終焉を願いながら、他方で、そうした人生の消滅自体を忌避することはありうるだろうと指摘するものです。希死念慮を持つ人が生き続けることの説明にもなっているように思われます。
一ノ瀬 ネーゲルの言う「生そのものの価値」か……。生そのものの価値というのは、人権思想のようなものをバックにしているのですか?
吉沢 結びつけるタイプの論者も、いるにはいます。アメリカのJ・デイヴィッド・ヴェレマンが代表です。しかし必ずしもそうではありませんし、本書も異なります。
一ノ瀬 死それ自体に対する考察や議論は、どのような文脈で可能なのでしょうか。生きている人はだれも経験したことがないわけですから。死は「自分は存在しなくなる」という概念にすぎない。
柏端 しかし実際、未来には存在しなくなりますよね。
一ノ瀬 私は完全に存在しなくなるという立場をとりませんけれどね(笑)。
――さて、ここで、事前に一ノ瀬さんから指摘されていた、死の哲学と死の形而上学の違いを検討してみましょう。
柏端 前提として、前者は後者を包括するカテゴリだということが指摘できます。私たちの言う「形而上学」は、存在論と大体同じ意味です。これをわざわざ「形而上学」と言ったことには、多くの死の哲学が倫理学の話になってしまうので、そこから距離を置くとアピールする意図がありました。
吉沢 現代における死の哲学において一番コアになっている、ネーゲルが提出したような問いを扱うという意味でも、「死の形而上学」という呼び名が最もしっくりきます。ネーゲルのメインの論文は先述の通り「死」ですが、その論文も再録されているジョン・マーティン・フィッシャーによる1993年の論文集は題名が『死の形而上学』なんです。ネーゲルが提題した当初から、死の哲学の中心には形而上学的な問題意識があったと考えていいでしょう。
また、死の哲学について、有力な研究者のベン・ブラッドリーらは「哲学内学際領域」だと説明しています。私たちもまたネーゲルの問題を引き継いで、形而上学を背景にする人たちの流れに乗っています。
一ノ瀬 「学際領域」ということは、医学や心理学など死の科学も入ってくるんですか?
吉沢 今年の国際学会では心理学者の発表も見られました。どんどん拡張していく方針なのだと思います。
一ノ瀬 しかしそうすると際限なく広がりますよね。医学、物理学、化学、脳神経科学……。
柏端 ちょっと偉そうですが、そこは何らかの形で哲学者が全体設計できればうれしいですよね。
吉沢 あるいは、すでに蓄積のある領域は死の哲学の下ではあまり論じられないかもしれません。安楽死の倫理的是非は生命倫理学に一日の長があります。そうすると、死の科学も死の哲学のもとには集まらない可能性がありますね。
一ノ瀬 とはいえ、哲学者が死の科学の知見をもとに論じることができる。それは分析哲学の醍醐味ですね。
柏端 学際領域のいいところは、お互いに口を出し合って中間的な領域の議論ができるところです。その意味で、生の哲学と死の哲学の関係も、対比するべきものではなく境界が曖昧になっていくものだと捉えられますね。
一ノ瀬 私は死の恐怖というのは生の哲学に入ると理解しているのです。生きている間の出来事ですから。
柏端 第六章は実存寄りの話ではあるので、その意味では生の哲学に含まれるでしょうね。とはいえ、死の意味を自覚することで生の意味を充実させるという議論ではないわけです。生の哲学は生命賛歌みたいになるケースがありますが、それを私たちは意識的に避けました。ラ・ロシュフーコーの言葉に「死と太陽は直視できない」というものがあります。ずっと死の話をし続けるのはなかなか難しいことです。しかし今回は、目が痛くても直視してやろうという精神で書きました。
一ノ瀬 死には実体がないですから。私はせめて他人称的なデータをとりたいわけです。すると、死の科学に頼るしかないのではないかと。実験哲学的にアンケートをとるだけでなく、もっと実証的なデータに基づいて議論がしたいです。
柏端 第二の直観はデータに乗らない。
一ノ瀬 森鷗外の「高瀬舟」は非常に象徴的です。兄の喜助は、自殺に失敗した瀕死の弟を楽にするために殺した。重罪を犯したのに喜助は善行を為したと思っているからすがすがしい顔をしているわけです。いわゆる慈悲殺ですね。
柏端 第二の直観に従うと、楽にはしていないわけです。
一ノ瀬 でも喜助は第二の直観を受け入れないでしょう。本当に楽にしてやったと思っている。それはある意味で自然な感覚にも思われます。
吉沢 第四章は少し特殊な章になっています。死者の福利〔well-being〕、つまり不在の主体が被る利益をどのように説明するかという問題です。ベン・ブラッドリーを中心に、それはゼロだとする人(ゼロ説)と、規定できない、未定義〔undefined〕だとする人(無規定説)という二つの立場があり、剝奪説や死後説(死はその人が死んだ後に害悪を与える)と相性がいいのはゼロ説なので、この章で私たちはゼロ説を擁護したかに見える。死後説をとるには、福利の水準を比較できるゼロ説を擁護する必要があるからです。
一ノ瀬 以前、学会で死後説を唱えられた日本大学の鈴木生郎さんに質問したことがありました。それと同じ質問を投げかけたいと思います。死後になって死は害だったと判明するのだとしたら、逆向き因果が働いていることになるのではないですか? 死んだ瞬間には死が害かどうかはわからず、死後にそれが判明するとしたら、因果の系列が時間的に逆向きになってしまう。
吉沢 鈴木さんの主張を代弁するなら次のようになります。死という出来事が害だとみなされている状況があり、その害を説明するために死後の状態が参照されている。そのため、因果的な関係が考えられているわけではない。これが標準的な説明だと思います
柏端 因果関係ではなく説明関係なんです。「死という出来事がなぜ悪いのかというと、死んだあとに死んでいるという悪い状態がもたらされるから」、というわけです。例えば、定期券を落としたという出来事がなぜ悪いかというと、その出来事が、のちに定期券を使って電車に乗れないという悪い状態を生じさせたからだ、というふうに。
死には二つの悪がある、と鈴木さんは想定されたのだと思います。まず死者は現在「死んでしまっている」という不幸に陥っている。そして、そのような不幸をもたらす出来事なので、死という出来事もまた悪いのだ。このような説明です。
一ノ瀬 しかしそれだと、論点先取的に、死の害は論理的にほとんど前提されているみたいな印象を受けます。それに、死後説が因果ではなく説明なのだとすると、むしろ「死の恐怖の観念説」と呼んだ方が良いと思われます。ネーミングの問題があるように感じます。
吉沢 「実際に害が生じていない」と言いたくなるものについては、ネーゲルが冴えた例を出しています。当人が知らないところで裏切られている、という例です。経験を伴わないタイプの害がある。
一ノ瀬 私には、第二の直観がどうも最後まで腑に落ちません。例えばお城が落ちるとき、お殿様が切腹することによって家来の助命を図ることがあります。このお殿様は死んだ後、称賛されるわけですよね。ネーゲルの例とは逆に、死ぬことによって福利が発生する。これに対して第二の直観は、死は悪いと決めつけているみたいに思われてならない。
吉沢 少なくとも、死後に起こったことによって名誉が失墜したり回復したりすることはあり、それが逆向き因果を示唆するのではないかという懸念はもっともなものです。それに対しては第三章で論じたように、複数の哲学者たちが一応の解決を与えています。
一ノ瀬 逆向き因果はアリなんだ、という議論はないですか。
柏端 遡及的な意味づけという意味で、お殿様の例は「単なるケンブリッジ変化」〔当該の対象に内在する性質がそのままでも、他の対象との関係が変わることで生ずるようにみえる変化〕を示唆するでしょうね。一ノ瀬さんも『原因と結果の迷宮』(勁草書房)でとり上げていらした、ネルソン・グッドマンによる仮現運動〔apparent motion〕をめぐる議論も遡及的な意味づけとして説明でき、これを逆向き因果と呼ぶ人がいてもおかしくはないように思います。
一ノ瀬 でも、死者の評価というのは〝今〟変わったという感じでしょう? 21世紀に生まれた少年がビートルズのレコードを聴いてジョン・レノンのファンになった時、〝今〟ジョンは尊敬されるようになったと言いたくなる。
柏端 逆向き因果を許容するなら、過去のジョンが変わったと見るべきでしょう。〝今〟ジョンが変わったと述べるには、変わるべき死んだジョンという対象が今なければならないので、そのような対象を認めないなら、過去が改変されていることになります。
しかし、私たちが問題にしたかったのは、普段我々は死者という対象を認めているということです。我々は死者とともに生きているようなところがありますよね。死んだ人たちはまだいて、語りの対象になっていて、ソクラテスが〝今〟尊敬され始める、といった語り方をします。死後説だとそうした語り方をせざるを得ません。しかし、単なるケンブリッジ変化においても、記述を変化させるべき対象がないとまずい。これが死者の問題の核心だと思います。
一ノ瀬さんも実は同じだと思うのです。死をめぐる倫理的な問題の多くは死者との関係において生じます。例えば、本書でも一ノ瀬さんの論文でも挙げられている「弔辞」です。存在しないはずの死者が対象になるという問題を抱えつつも、とりあえず表面的には、存在しない者について語っている。これを自然とするのが死後説でした。しかし、「死んだ人は存在しないじゃないか」というエピクロス的なツッコミもロジカルには効いてくるわけです。そして第二の直観もそれと同じ批判をしている。
一ノ瀬 そうなのですか。ここで一つ聞きたいのは、終焉と消滅の対比についてです。終焉は第一の直観に、消滅は第二の直観に対応するとおっしゃった。
柏端 終焉の場合、対象性を残した死者が許容されます。論文で一ノ瀬さんが指摘されていることですが、「「死者は存在しない」と主張するためには、まず「死者」という表現を用いなければならない。換言すれば、死者の存在を否定する議論そのものが、すでに「死者」という何らかの存在性を暗示するかのような概念を前提としているようにも見える」。これはまさしくその通りで、第一の直観はそれによるものです。
対して消滅は、そうした存在性、マイノングっぽく言うと対象性そのものもなくなってしまうことです。これが第二の直観の根底にある考え方で、第五章・第六章で頭をもたげてきます。結局、死後説は我々の日常の語り方としては非常に整合的だし、第一の直観にあっているけれども、錯誤理論〔error theory:ここでは、ほんとうは真理でない「死者は存在する」という観念に従って我々は行為を行っているということ〕の領域に収まってしまう。第二の直観こそが実情なのだというわけです。我々は死者について〝間違った〟ことを語っているようだ、と。
一ノ瀬 徳川家康の子孫の方が、東照宮にお参りするとき、そこに徳川家康はいるんですか?
柏端 本書に従うならば、いるかのように振舞っているということになります。
一ノ瀬 家康は消滅しているんですか。
柏端 形而上学的には消滅しています。哲学的な結論と普段の生活とで二重生活を送ることになるので、その意味でも偽装説や錯誤理論は嫌われるのかもしれませんね。
吉沢 第一の直観では、我々は死者について語る。第二の直観では、我々は死者について本当は語れない。この対比が、本書の一番のポイントです。
一ノ瀬 ……意味は分かるんですけれど、語れるようにしか思えない。
柏端 私たちはしつこく、この死者の存在論にこだわります。我々は弔辞を述べることができるけれども、死者は本当は存在しないから真実は語れないですよね。
一ノ瀬 私の落としどころは〝そこにまずは遺骨がある〟というものです。遺骨に対して弔いの気持ちを投げかけているのではないですが、それが一つのよすがになって死者を弔っている。全く手掛かりのないものに語りかけているのではないというのがポイントです。背景にあるのは分子生物学です。人間は要するに物理的対象なのだ、だから因果的残滓として物理的なものが残っていれば、その人は何らかの意味でかすかに存在している、と。
柏端 しかし例えばプラトンは骨も毛髪も残っていませんよね。
一ノ瀬 声。ファンタジー的に響くかもしれませんが、非可聴的だとしても、物理的振動としての声が残っています。全く何もないのなら錯誤理論や偽装説でよいのですが、全面的にその人がいるわけではないものの、その人の因果的帰結、物理的な何かが残っている。そうでないと無理でしょう。
柏端 「君がいなくなって寂しい、いや、むしろ悔しいんだ」と呼びかけるとき、「君」というのは遺骨を指すのですか。
一ノ瀬 遺骨を指しているのではないですけれど、「君」と述べることが何かを指しているというリアリティを持つためには、何か手掛かりがないといけません。
柏端 ポイントはよくわかります。ちょうどドラマなどのフィクションで、セットがちゃちだと没入できないけれども、本当に当時の街並みが再現されているようなセットだったら視聴者も没入できる、というような意味だと思います。
一ノ瀬 それが錯誤なのだとしたら、錯誤理論も妥当なのだと思います。私の考えでも、死者が保ち続ける存在論的なステータスはほぼゼロに近い。死んだらばもう痛みも幸福も感じない、というエピクロス的な直観は保ちたいのです。しかし死者は全然まったく消滅してしまって少しも語ることができないとすると、日常の活動と深刻なずれが生じてしまう。そこで、人間の存在性が物理的なものだということが効くんじゃないかと考えました。分子生物学の原着想では、物理現象と生命現象との間に実は本質的な差はないのです。
だから私は死すべき者の問題を論じるとき、パーソン〔person〕の語がラテン語のペルソナ〔persona:仮面〕に由来するという議論を持ち出します。その語源の一つには「声を出す、反響させる」を意味するpersonareという動詞があるのです。「声」はキリスト教文化圏において非常に重要な概念です。先ほど言及なさったヴェレマンには「良心の声」という論文があり、このペルソナが倫理的な対象になっていく。
また、カントが『人倫の形而上学』で打ち出したPersonの規定は、「自由な責任主体」でした。自由は権利概念の中核です。つまるところ権利とは、人々の主張の声によって成立してくるノモス的な現象なんです。私はpersonを「声主」と訳してきました。
柏端 今お聞かせいただいたことから、死に関する捉え方は私たちと非常に近いと感じました。守りたいものもほとんど同じ。死者とともにいるような語り方です。そのために持ち出す道具が少し異なるのでしょう。一ノ瀬さんは物理的なものです。私たちは錯誤理論的な二重生活を送ることで、第一の直観と第二の直観のいいところどりをしようとしている。
吉沢 しかし、一ノ瀬先生の議論だと、もともと守ろうとしていた生きていることの方が価値下げされてしまうのではないでしょうか。生と死の差がなくなってしまう。
一ノ瀬 そうだと思います。死そのものに価値があるというふうに転換していきます。人称の差異もくっきりしたものではなくなっていくのです。
吉沢 そうした見解は、デレク・パーフィットも提出しています。死の恐ろしさを生死の境界の曖昧化によって解消することで、安らかに生きるための指針が得られると。しかし、その慰めをネーゲルは拒否します。そんなことをしたら生が恐ろしいものになってしまう、と切り返すのです。死の恐ろしさを解消することは、翻って生の価値を大きく下げて恐ろしい生へと変えてしまうことになるのではないでしょうか。
一ノ瀬 仏教的な世界観において、生老病死は四苦と呼ばれますからね。あるいは私は浮動的安定と呼んでいるのですが、休むことのないふらふらした状態に安らぐという、矛盾的な概念によっても捉えられます。
吉沢 その考え方で、パーソン概念によって守りたかったものは崩れないのでしょうか?
一ノ瀬 実は守りたいわけではなくて、西洋的な観点からするとそうなるだろう、という差し当たりは記述的な見解なんです。今後の展開としては、これを東洋的な観点から評価する可能性がありますね。もちろん、仏教にもさまざまな宗派があります。親鸞上人は「平生業成」、すなわち死後のみならず現世そのものでさえ極楽なんだとする驚くべき思想を打ち出しています。死の恐ろしさに対して逆張りするわけです。しかしソクラテスだって『パイドン』で、ハデスの世界(冥界)に行けばあらゆる素晴らしいことが待っていると語った。死の恐ろしさも死の素晴らしさもどちらも成立するのではないかと思うのです。
柏端 その結論は、多くの人が死の哲学に期待するような救いにはならないでしょう。しかしそれこそむしろ、安易な救いを与えないという意味で、まことに哲学的なものだと言えるでしょうね。(おわり)
★よしざわ・ふみたけ=一橋大学大学院准教授・哲学。共著に『人生の意味の哲学入門』『分析形而上学の最前線』など。一九八二年生。
★かしわばた・たつや=慶應義塾大学教授・哲学。著書に『コミュニケーションの哲学入門』『現代形而上学入門』、訳書に『インテンション 行為と実践知の哲学』など。一九六五年生。
★いちのせ・まさき=武蔵野大学教授・哲学。著書に『原因と理由の迷宮』『死の所有 増補新装版』『英米哲学史講義』『確率と曖昧性の哲学』『ためらいと決断の哲学』など。一九五七年生。
書籍
| 書籍名 | 死の形而上学 |
| ISBN13 | 9784766431216 |
| ISBN10 | 4766431219 |
