2025/06/27号 5面

「台湾のヌーヴェルヴァーグ作家」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)396

台湾のヌーヴェルヴァーグ作家 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 396  JD マノエル・ド・オリヴェイラは、ポルトガルという国と深い結びつきがありました。ファスビンダーもドイツの歴史抜きにしては語れません。パゾリーニや大島渚も同様です。彼ら以前の映画作家たちも、より無邪気なかたちで、国や民族と結びついていました。そのことは、ハリウッドのフランク・キャプラなどのハッピーエンドの物語や、ソヴィエトのプロパガンダ映画についても言えることです。ファスビンダーやパゾリーニの世代、つまり各国のヌーヴェルヴァーグの世代は、クラシック映画の無邪気な見方に対して、拒否の姿勢を示しました。そして、批判的に社会を考察して、映画を再構築することになったのです。  HK フランスのヌーヴェルヴァーグは、そうした動きとは無縁だったのではないでしょうか?  JD 初めは社会的な運動とは無縁でした。ヌーヴェルヴァーグとは、若い男女をベッドの上で語らせているだけの映画だと、批判されてもいました。しかしヌーヴェルヴァーグは、当然ながら当時の社会に対して批判的でした。ゴダールは、『小さな兵隊』や『カラビニエ』を撮っていますし、六〇年代後半から政治映画を撮り、それは今日まで一貫しています。シャブロルに至っては、最初期からフランスのブルジョワ社会に対して、非常に巧みな方法で批判を続けていました。私たちのグループの外でも、アラン・レネやストローブは、社会に対して批判的な映画を作っていた。ファスビンダーやパゾリーニほど直接的で、挑戦的ではなかったかもしれませんが、フランス映画にも同じような試みはありました。イタリア、ドイツ、日本とフランスのヌーヴェルヴァーグの表現法の問題に関しては、戦後の政府の立場も深く関わっています。あなたたちは、ファシストを直接的に弾劾するべきであった。しかしそうした行いをせずに、隠そうとした。それに対して反抗する若者が、ヌーヴェルヴァーグとして姿を表したとも言えます。フランス政府は戦時中も戦後も、どっちつかずな立場をとってきました。その曖昧な立場の背後には、〈伝統〉という名の古き良きブルジョワのフランスがありました。だからヌーヴェルヴァーグは、そうしたフランス映画のある種の〈傾向〉を非難することから始めているのです。以後七〇年代のゴダールに至るまで、態度は一貫していると言えます。伝統的フランス映画を破壊した行いの延長に、政治的映画があるからです。  HK ルノワールやグレミヨンなどは、ヌーヴェルヴァーグ以前からヌーヴェルヴァーグ的だったとも言えますね。  JD ルノワール、ロッセリーニらは、真の意味でヌーヴェルヴァーグの起源にあります。彼らからの影響は計り知れません。  HK いずれにせよアルベルト・セラは、そうした批判的行為とは無縁である印象があります。言うなれば、より芸術的で、より耽美主義的です。その耽美主義も、ヴィスコンティやダニエル・シュミットのように、貴族的であったりロマン主義への懐古的なものではなく、より人工的に見えます。一方でアピチャートポン・ウィーラセータクンや蔡明亮の映画は、人工的ではあるけれど、そう見えない生々しさがあります。  JD なぜなら、セラはヨーロッパの映画作家であり、アジアの映画作家ではないからです。要するに、アピチャートポン・ウィーラセータクンや蔡明亮――そこに侯孝賢なども加えてもいいででしょう――は、遅れてきたヌーヴェルヴァーグの映画作家とも言える一面があるからです。侯孝賢は台湾のヌーヴェルヴァーグの中心にいました。つまり、それまでの映画産業が作っていた、公的な映画――そこで語られていることは権力の検閲下にある噓です――ではなく、ありのままの生を語り始めた映画だったからです。台湾、タイ、ブラジルなどの国では、ヌーヴェルヴァーグは八〇年代以降に訪れることになりました。台湾には、侯孝賢と楊德昌のグループがあった。彼らは、それ以前の京劇のような伝統的映画ではなく、現実の世界に向き合い、若者たちのありのままの生を撮影することで映画を作りました。     〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)