百人一瞬
小林康夫
第93回 マルク=アラン・ウアクニン(一九五七― )
昨年末、ウアクニンさんの著書が二冊同時に刊行された。『だからひとは蜻蛉を愛する』と『ツィムツム ヘブライ的瞑想入門』(どちらも水声社)。とうとう!とわたしとしては感慨深いものがある。パリでのまさに「一瞬」の出会いが契機となって、六年後、わが国で本が出る……そのように「時間」は流れる……と。
ウアクニンサンは、パリで活躍する哲学者にしてユダヤ教のラビ。ユダヤ教の世界理解の真髄を、「大学の知」でもなく「宗教の教え」でもなく、ただただ果てしなく続く「問いかけ」の実践として人々の前で、人々とともに、パフォーマンスする人。呆気に取られるくらいおもしろい。
といっても、わたしがそのパフォーマンスにおつきあいさせていただいたのはただ一度だけ。二〇一九年の二月。二〇一二年の秋にわたしがパリのコレージュ・ド・フランスで日本の戦後文化について行った四回講義の全部に出席してくれた海洋学者の友人ヴァンサン・シュミットさんが「わたしはウアクニンの弟子だ」と言うのを聞いて、一度くらいはユダヤ的な「教え」の本質に触れてみたいと、パリ滞在中に無理を言って、セーヌ川にほど近いシナゴーグの一室でウアクニンさんが毎週行っているゼミに参加させてもらったのだった。
おもしろい! なにしろ『マルコによる福音書』第七章の十数行ばかりのテクストを、ギリシア語とヘブライ語の間を行ったり来たりしながら、五時間もかけて読み解いていくのだが、それが、ほとんどサッカー・ボールを蹴っ飛ばすように、あるいは天才・手品師が技の限りを使うように、こちらに息もつかせず、続いていくのだ。
その講義について書いたテクストで、次のようにわたしは書いている――「言葉に、文字に、数に問いかけること、それがカバラー、あるいはタルムードの根源的な掟ということかもしれない。どんな答えにも満足してはならない、答えは問いほどは重要ではない、その根本的な逆転に、わたしは、ユダヤ教の伝統の「核心」がどのようなものであるのか、はじめて身体的にちらっと垣間みることができたような気がした」と(「パリ、シナゴーグの午後」)。
この拙文は、わたしの個人編集雑誌『午前四時のブルー』第Ⅲ号(水声社)に掲載されているのだが、この「号」は「蜻蛉の愛、そのレッスン」と題されているように、なによりもウアクニンさんの仕事の紹介に捧げられていた。だから、そこでウアクニンさんの「だから人は蜻蛉を愛する……」の一部を、東大・表象文化論の教え子のひとりである高山花子さんに翻訳してもらい、そのことが今回の本の刊行につながった。そして、その同じ号には、ウアクニンさんの唯一の日本人の弟子であり、今回の『ツィムツム』の翻訳者の中心である永井晋さんにもテクストを寄稿してもらった。
つまり、わたしとしては、そこでわたしが仕掛けた(?)プロジェクトがとうとう実った感覚なのだ。
六年前のあの夜、受講生がみんな帰ったあと、わたしはウアクニンさんと「あの世」について短い哲学対話をした後で、人気ないシナゴーグのなかを案内してもらい、それから彼の小さな車でアパルトマンまで送り届けてもらった。
シナゴーグはパリ15区のグルネル橋のそばだった。そのひとつ先がミラボー橋……すると「夜が来ようが/鐘が鳴ろうが/日々は過ぎ去る/わたしはとどまる」……アポリネールのあの歌が聞こえてくるのだった。(こばやし・やすお=哲学者・東京大学名誉教授・表象文化論)
