モーツァルトが駆け抜けた時代
小宮 正安著
安川 智子
モーツァルトは近代の「音楽史」の犠牲者ではないかと、常々感じていた。「ウィーン古典派」という括りで、「ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン」が正典化され、ピアノ文化やソナタ形式の象徴として、十九世紀以降に作られた(ドイツ・オーストリア)音楽史の主要登場人物に位置づけられてきた。しかし彼のオペラや室内楽曲、さらには宗教曲、協奏曲、交響曲と、全ジャンルに残された音楽の特徴は、そのようなドイツ語圏の文化だけでは語り尽くせない。とりわけ十七〜十八世紀のフランス音楽文化を研究すると、モーツァルトがごく自然に、その延長線上に現れることがわかる。
本書は、後世からの視点につい引きずられがちなモーツァルト像を、あたかも彼と同じ空気を吸っているかのように、「時代そのもの」の記述に徹することで刷新しようという試みである。同出版社の類書に『ヘンデルが駆け抜けた時代』(三ヶ尻正著、二〇一八)があるが、音楽家の行動、音楽作品が生み出された背景を、政治・外交から読み解くという視点は共通している。また著者の小宮氏自身が訳した『チャールズ・バーニー音楽見聞録〈ドイツ篇〉』(春秋社、二〇二〇)でも実践されている「旅・都市・人的交流」の細かな描写を踏襲することで、想像上の音楽を補って余りある豊かな成果がもたらされている。これら関連書も合わせて読むことで、音楽をめぐる「十八世紀ヨーロッパ」の解像度は飛躍的に上がるだろう。
書籍の構成は、一応年代順になっているが、モーツァルトがウィーンに定住する一七八一年までを扱った前半が圧倒的に面白い。「ザルツブルク」「カトリック」「神童」「郵便(馬車)」「手紙」といった魅力的な記号を巧みに組み合わせることで、「新旧の価値観のせめぎ合い」という柱となるテーマが解きほぐされていく快感があるからだ。モーツァルトが時代の「狭間」を生きたという主張は、本書の中で様々に言い換えられながら繰り返されている。バロックからロココへ、「私的な」音楽教育と「公的」な音楽教育、神の存在に重きを置く世界観と、近代科学にも通じる実証主義的世界観、前近代的非合理主義と、近代的合理主義。なかでも、馬車による旅/郵便馬車のいずれにも深くかかわる「手紙」が、自らの内面をみつめるきっかけとなり、言葉を通じた自己表現の手段を得る社会の誕生と、近代的自己意識の目覚めをもたらした、という指摘は、モーツァルトの手紙や音楽に照らし合わせて、再確認する楽しみを与えてくれる。
ただ、歯切れの良い筆致が、後半に入りやや失速したように感じるのは、著者自身が「本来的に全く異なる方向性を向いた二つのベクトルが、奇跡的にも…あるいは奇妙にも繫がり合った時代の産物」と表現した「ロココ的啓蒙主義」の正体が、思った以上に厄介だったからではないか。少年時代のモーツァルトがロココ的啓蒙主義の産物であり、彼の音楽にもその特徴が現れている、という指摘には首肯するが、モーツァルトが訪れる先々の国が「ロココ的啓蒙主義」を提供したという文脈と、書籍後半(第八章以降)で「啓蒙都市」として据えられるウィーンの間には、まだ大きな断絶を感じる。その間(第六章)には「カトリック的啓蒙主義」として、新しいザルツブルク大司教、ヒエロニムス・フォン・コロレードが登場する。さらにモーツァルトのウィーン時代を司る重要なキーワードが「フリーメーソン」であるとして、小宮氏はそのフリーメーソンに新旧の価値観の「旧」の役割をあてがう(第九章)一方で、フリーメーソン内部にも、新旧の要素が含まれていると感じさせる記述もある。
このように、モーツァルトに流れ込む複合的な啓蒙主義に対する読者の理解が曖昧なまま先に進んでゆく感覚が、最後まで尾を引く。ここはやはり、ルイ十五世〜十六世時代のフランス宮廷とパリを中心とした、ラモー、ルソーにとどまらない、同時代フランスの音楽家・知識人についてのより深い理解と、ドイツ語圏の諸都市への逆照射が、もっと必要なのではないか。さらに、モーツァルトの楽譜に刻印された様々な情報(献呈や編成など)からも、より密着した音楽と人脈の関係性が明らかになるはずだ。
迸る固有名詞の数々は本書の魅力である。細部から埋めていく「狭間」の記述の完成には、ぜひ立脚点の異なる他の研究者との共同作業とその反映も期待したい。(やすかわ・ともこ=北里大学教授・音楽学)
★こみや・まさやす=横浜国立大学教授・ヨーロッパ文化史・ドイツ文学・藝術社会学・比較文化論。著書に『コンスタンツェ・モーツァルト』『音楽史影の仕掛人』『オーケストラの文化史』『モーツァルトを「造った」男』『愉悦の蒐集』『祝祭の都ザルツブルク』など。一九六九年生。
書籍
| 書籍名 | モーツァルトが駆け抜けた時代 |
| ISBN13 | 9784393932339 |
| ISBN10 | 4393932331 |
