2026/03/27号 5面

わたしはどこに

わたしはどこに 片山 郷子著 九螺 ささら  本書の著者である片山郷子は、現在八八歳。六〇代半ばで網膜色素変性症を患い、中途失明して全盲となった。パソコンのキーボードを指で叩いてローマ字入力して(音声でその日本語を確認しながら)文をつむいでいるらしい。冒頭には、哲学者デカルトの言葉「われおもう ゆえにわれあり」がある。この本には、「わたしはどこに」と題したエッセイと詩のほか、小説二編が入っている。エッセイでは、作者の現状と、ふいに思い出された過去が記される。「わたしは何者。暗いところに閉じ込められたわたしはだれ。黒しか見えない全盲のわたしはだれ。形も色も見えたころのわたしはどこ。どこにいる。見えたころのわたしを返せ。消えた手足を戻せ、戻せ。わたしはどこにいる。果てしなく続く黒の中でわたしはどこにいる。」生来全盲であるよりも中途失明の方が、比較できてしまうがゆえに、失明してからの失望、不安、取り残され感、閉塞感が強いのだろう。作者は「やっぱり神は信じられない」と思う。だが、作者は生来好奇心が強く、開拓精神も旺盛で適応力もあり、高齢ゆえの諦念力も味方しているのだろう。全盲という状況下でも、精神が生きてゆくために必須の自己探求をやめない。「鏡で自分の顔の動きを観察してみたい。歳をとって、見えないことでわたしのこころはひねくれてきた。その顔を見てみたいと思うようになった。」  私は中学二年の夏休みに、谷崎潤一郎の『春琴抄』を読んだ。そして、本当の恋愛ができるのは、見た目に左右されない全盲同士だけなのだと思い至った。そんな私が素敵だなと思ったのが、盲老人ホーム「みるみる園」での、作者と全盲のピアニストBとの交流である。エレベーターの中で二人きりになった作者と彼は、その度、誰にも秘密で数秒間抱擁し、互いの孤独を慰め合う。しかし、作者が園を去った数年後、作者は彼の病死を風の便りに知る。彼の死は悲しいことに違いないが、しかし死というシャットダウンにより、この思い出や彼の感触は、もう誰にも何にも汚されることなく、作者の心に美しいまま永久保存されるだろう。その後に入った高齢者用賃貸住宅「水たまり」では、全盲は作者一人で、作者はそこに全盲者をいたわる雰囲気はないと嘆き悲しむ。「見えないわたしは見える人に恋しているようなところがある。いつも片思い。」  二編の小説は、失明前に書かれたものだ。『ガーデナの家族』は、尚子という五六歳の主人公が、叔父の三四郎と二人で、叔父の二郎の葬式のためにカリフォルニアのガーデナに行く話である。二郎は、糖尿病起因の中途失明者だった。彼は、日本にいたら按摩しか職業がないからとアメリカに渡り、三回結婚しながらマッサージをして生計を立て、妻子に家を遺した。そのことを、弟の三四郎は立派だと思う。二郎は黒眼鏡をかけ、カリフォルニアの鮮やかな景色のその色と形を認識できずに生きていた。『柿の木』では、父が植えて大きくなった柿の木が、父が亡くなると他人の土地となったために切り倒されるまでが描かれる。「わたし」は結婚して、父の土地の一角に家を建て、子を産むのだが、その長男が、色盲検査で引っかかり、色弱の疑いがあると言われる。夫が「色盲は緑の中の赤が見分けづらいから、柿を数えさせて見ろって」と言い、長男は庭の葉の中の柿を数え、正確に答える。  この一遍でも、色と形がふんだんに描かれ、そして色盲という、視力に関する欠如の不安が、その色形の鮮やかさに不安の影を落とす。  前半のエッセイと詩では閉じ込められた暗闇の心模様が描写され、それゆえ、そのあとで失明前に書かれた小説二編を読むと、まるで真夏に屋内から炎天下に出たかのように、その眩しさが際立つ。作者が作家として、その現在と過去の対比を効果的に利用できるのだと認識したら、神への不信も少し和らぐのかもしれない、と思った。(くら・ささら=歌人・絵本文作家)  ★かたやま・きょうこ=小説家・詩人。現在一種一級の失明者として作家活動を続ける。一九九五年「柿の木」で小諸・藤村文学賞最優秀賞。一九九八年「ガーデナーの家族」でやまなし文学賞佳作。二〇〇八年「空蟬」で銀華文学賞優秀作。著書に『愛執』『光る骨』『満月ふたたび』など。一九三七年生。

書籍

書籍名 わたしはどこに
ISBN13 9784911729038
ISBN10 4911729031