2026/04/17号 8面

対談=柴田元幸×中村邦生「小説のおもしろさはどこにあるのか?」読書人隣りトークイベント載録

柴田元幸×中村邦生 <小説のおもしろさはどこにあるのか?> 『中村邦生小説選 月光の仕事』『MONKEY38号』ほか  三月二七日、読書人隣りにて作家の中村邦生氏、翻訳家の柴田元幸氏によるトークイベント〈小説のおもしろさはどこにあるのか?〉を開催した。『中村邦生小説選 月光の仕事』(国書刊行会)、『MONKEY38号』(『鏡の国のアリス』新訳、スイッチ・パブリッシング)の話を皮切りに、縦横無尽に広がる、〈聞く・読む・書く〉話の一部を載録する。(編集部)  柴田 中村さんの『小説選 月光の仕事』の解説を書かせていただいた経緯で、今日は二人で、「小説のおもしろさ」についてお話しすることになりました。  中村 柴田さんは次々と旺盛に新刊を出される方なのですが、今日は最も新しい翻訳のお仕事である『MONKEY38号』から、話を始めたいと思います。『鏡の国のアリス』を柴田さんが、この雑誌の中で全訳・解説しています。  まず感心したのは、従来広く知られたタイトルでなく、原題「Through the Looking-Glass」により忠実に『鏡を通って』と訳されたことです。さしずめ「通過」するアリスです。『鏡の国のアリス』というタイトルでは、あるスタティックな空間だったものが、『鏡を通って』となったとたん、そこに運動性が生じてきます。  柴田 考えていませんでしたが、その通りですね。  中村 そもそもこの物語は、チェスの駒の動きに即して書かれていますので、作品の最も基層にあるものが、柴田訳のタイトルには生きているということです。  そして本文の訳も驚きで、「である調」「ですます調」がまぜこぜ。さらに「おった」とか「だよね」とか「だぞ」など、様々な語尾が入り混じってくる。これを訳したのが新人翻訳家なら、すぐに編集者からチェックが入るでしょう(笑)。  おそらくここは、言語の法則性さえ揺れて、語尾すら様々に変化する世界なんです。声に出して読んでみると、まぜこぜの語調には、ざらつき感があります。それが独特な訳文の弾みを生んでもいます。「通り抜ける」ことこそが、この作品の本質を照らしている。そして本文全体の語勢にある種の運動性を持たせるのにふさわしい作品なのだと、そう感じながら読みました。  柴田 ありがとうございます。これを訳したのは、ポーランドで生まれ、人生の後半はイギリスで暮らしたアーティスト、フランチシュカ・テメルソンのアリスのイラストレーションを日本で紹介したいという、それが第一の動機でした。でもどうせ訳すなら、やりたいことをやろうと思ったんです。『鏡の国のアリス』にはすでに高山宏さん、柳瀬尚紀さん、矢川澄子さんなどの名訳があります。ですから今、僕が訳すなら、批判されてもいいから何か実験してやろうと。通常は、作品を訳すときに、一つの定まった声を作ろうと考えます。ところが今回は声が定まらないように、捕まえられないようにしようとしました。  中村 鏡の国がそういう試みを促す世界なのですね。  柴田 ええ、単純にさかさまというよりは。  中村 こちらの世界では定まっている何かが攪拌されている。この日本語をなんとも羨ましいと思ったわけなんです。  柴田 ありがとうございます。でもそういう捉えがたさはむしろ、中村邦生作品のキーワードだと思います。『月光の仕事』は、これまでの中村さんのお仕事から、選りすぐられた作品が並べられていますが、どの作品も物事の白と黒をはっきりさせないことがポイントになっていると思うんです。  「陽」「昼」から「月」「夜」へ移行する、それが中村さんの小説の基本的な動きですが、といっても、別の時空へ移動することによる象徴性や、深層や真理に出合うというような階層化は薄い。死者と生者が涼しい顔で同じ場にいて、現実と異世界が同時にあり、世界は豊かに歪んでいる。現実が「地」の地位に貶められ、異世界が「図」として浮き立つことはない。現実も別時空もフラットに、差別化されずに書かれる点が魅力です。  そして表題作の「月光の仕事」、ここでは時間感覚も攪拌されています。  中村 地下室なのに月の光が薄く入ってきて、しばらくすると、開いた本から様々な声が過去を語り出す。気づけば時間が戻っている。あるいは一日先に進んだのかもしれない。  この短い一篇は、作品集全体の世界に通じています。過去作も最近作も刊行順で並べずに同一地平に並置して、できれば全てを等しく今の作品として、読んでほしいと考えたんです。  私は老いが成熟をもたらすという通念を疑っていて、年齢攪乱的に生きたいと思っているんです。老いているのに懲りずに好き勝手をやってるなと思われるような。過去と今、若さと老い、生と死などをまぜこぜにした作品に心惹かれます。  柴田 『月光の仕事』を、解説を書くために集中的に読んだのは昨年の夏です。それからしばらく経ちましたが、今も印象に残るのは、ある場所から別の場所へ移動するときの、原っぱのような場所の心細い感じとか、二つの空間が重なり合って混乱するような揺さぶられる描写です。  「新宿三井ビルの壁面は反射ガラスが使われていて、ビル全体が巨大な鏡のように見える。冷ややかな翳が街を浸しはじめる黄昏の時間になると、鏡面に日没の太陽が映し出されて、通りは奇妙な明るさに充たされるのだ。議事堂通りのプラタナスの街路樹の根元にわずかに残る土に、野芥子が黄色の花を咲かせ、ちぢれた葉を伸ばしているが、その花影も日没の自然光と三井ビルの壁面の反射光によって2つできる」。「古文書を発掘した」という一篇の一部ですが、高層ビルという遠景と、野芥子という近景との描写がほとんど無造作に並置されて、最後に日没の自然光と、三井ビルの壁面の反射光によって、花影が二つできている。こちらから向こうに明確に移動するのではなく、二つが並置され、焦点化が回避されるんです。  とはいえ、昼から夜へ、日常から異世界へ、踏み出せばスッと行けるのかと言えば、そこには手続きが必要で、この手続きこそが中村作品の肝だと思います。  中村 ささやかな小説作法は、説明せずに描写を繫いで展開するということでしょうか。苦労しますが、読み手のイメージを揺さぶり、想像的にステップを踏ませるための場面やディテールを如何に書くかということになりますが、そのための勘を働かせるためには、普段何を見て過ごしているのかが重要になってきます。  私は折々に「細部集め」をします。ほんの一例ですが、台風一過の朝に、コンビニの前の大きなゴミ箱がひっくり返っている。そのときゴミがどんな角度で落ちていて、捨てられた新聞にはどんな見出しが躍るのか。小説に使うかどうかは別として、細部に目をやり、創作気分をチューニングしたりします。  柴田 細部の描き込みが、小説の日常と異界とをフラットに繫いでいくということですね。  中村 あるいは視点人物の動きが繫ぎを決定したりもします。たとえば、登場人物が私鉄郊外に住んでると仮定して、駅まで歩かせてみる。何をしていくのか。公園の中を抜けていくのか、それとも大通りを進むのか。途中でポストに立ち止まって、手紙を投函するのか。ショーウインドに姿が映ったとき、髪に手をやるのか。駅の売店で買う新聞はどれかなど。人物像のディテールが決まると、ドラマが生まれますから。  中村 実は柴田さんも小説を書かれていますよね。『バレンタイン』という短編集です。アメリカ文学をたくさん読んできた方なので、その中の作家の誰かに似ているのかと思えば、誰にも似ていない。作法を評するならば、「とぼけ文体」です。  多くの収録作はドッペルゲンガー、自分ともう一人の自分を描いた物語です。表題作では、僕は、「かつての僕」に出会い、書店で一冊の少年サンデーを奪い合って揉み合ったりする。妙ですよね。でもこれが平然と一種とぼけたスタイルで書かれているんです。そのうちにこの子と仲良くなって、雑誌の回し読みをしたりする。最後に小学生の僕が、「ねえ、生きてくのって大変?」と尋ねる。それに自分は、「大変だと思うときもあるけど、けっこう楽しい」と答える。「僕は外国の小説をホンヤクしてるんだけど、それを読んで面白かったって言ってくれる人がいるのは嬉しい。そうやって読んでくれた女の人が、バレンタインにチョコレートをくれたりするのも嬉しい」と。  おどろおどろしくドッペルゲンガーを描くのではなく、平然とユーモラスな「とぼけ文体」で書く。柴田さんが、私の小説に対して指摘してくださった「地」と「図」の非階層性とは、実はご自身の小説の特徴を述べられた。つまり私は「鏡」です。この問題に関する限り、柴田さんが私のドッペルゲンガーであり、私が柴田さんのドッペルゲンガーなんです。  柴田 アリスと見事に繫がりましたね。  中村 話は変わりますが、一冊をまとめてみて自分は意外としみじみする傾向の人間だということにも気がつきました。  柴田 「もっと音を大きくしてください」などは実にしみじみと素晴らしい作品ですね。詩人のチャールズ・シミックのエッセイを思い出します。夜中にラジオを鳴らしていたら、同じアパートの住人がやってきた。うるさいと怒られるのかと思ったら、この美しい音楽は何だと聞かれて、リロイ・カーとスクラッパー・ブラックウェルだと答えたら男は黙って音楽を聴いて帰っていった、という話ですが、中村さんの作品はその上を行く素晴らしさです。  中村 ありがとうございます。一方で、本を読んでも映画を見ても、自分がいつも同じようなところで反応しているという、感動の自己反復性にうんざりすることもあります。最近、内田百閒の『百鬼園俳句帖』を読みました。芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天の河」を、私はあらゆる文学の中での最高傑作と思っています。一七音で近景、中景、遠景を雄大に描いている。ところが百閒は、壮大な句ではあるけれど、ちょっと気を変えて読み直すと、暗い荒海の上に天の河がかかっているというのは、実に滑稽な景色であると述べる。この句を滑稽という見方があるのかと感心しました。大事な点は「ちょっと気を変えて読み直す」というところです。感動の自己反復性を、そんなふうに揺さぶりたい気持ちが、ときにはあります。  中村 私たちには「書き出し」という共通のテーマの本がありますね。柴田さんは『書き出し「世界文学全集」』、私は『書き出しは誘惑する』という小さい本です。柴田さんが特に気に入ってる書き出しの作品は何でしょうか。  柴田 平凡ですが『アンナ・カレーニナ』です。訳によって言葉は違いますが、「幸福な家庭はみんな似たようなものだけど、不幸な家庭はそれぞれ違ったかたちで不幸だ」という。  中村 私も好きです。『書き出しは誘惑する』でも取り上げています。若き日の北海道旅行の折に、上野駅で読み始めて……。この小説にはたくさん駅が出てきますね。  柴田 列車が重要なモチーフですね。  中村 ナボコフは自作『アーダ』の中で、『アンナ・カレーニナ』の冒頭の表現を入れ換えています。「幸福な家庭というものはどれもこれも多少違ったところがあるものだが、不幸な家庭というのはいずこも似たり寄ったりである」と。私は両方正しいように感じています。  柴田 そうですね。ナボコフがトルストイの言葉を否定しているというよりは、大原則があった上でこうも言えると、トルストイの正しさを裏から補足しているように感じます。  中村 さらにアーシュラ・K・ル=グウィンは、『ファンタジーと言葉』の中の「幸福な家庭はみな」で、少々注文をつけているんです。トルストイにはあれほど複雑な人生経験があるのに、幸福と不幸についてこれほど単純な認識を持っていたとは信じ難いと。  柴田 幸と不幸はそれほど簡単に線引きできない、と言いたかったのでしょうか。  中村 そうかもしれません。  ところで、柴田さんはどんなときに、小説を面白いと思われますか。  柴田 一言でいうと裏切られたときです。そういうのは書き出しからすでに起こりえます。たとえばポール・オースター『幽霊たち』の「まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる」という書き出しも、こんな手があったのかと。そんなふうに驚かせてもらえるものが好きなようです。  中村 柴田さんはそのような、ひねりの利いた作品を訳されることが多いですね。昨年末に刊行された、スティーヴン・ミルハウザー『高校のカフカ、一九五九』もそうでした。中でも「彼は取る、彼女は取る」は実におもしろく読みました。「取る」を羅列した文章が、まるでミニマル・ミュージックみたいなんです。  私も柴田さんに近いですが、時空がぐらっと歪むようなものが好きですね。いわゆる幻想文学ではなくても、時空が不思議なよじれ方をしている作品はありますよね。たとえば、意外にも川端康成の『伊豆の踊子』の書き出しもそうです。「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た」。  ここには時空の歪みを思わせる不思議さがあります。ポイントは主語です。まず主語として置かれるのが「道」と「雨脚」で、「天城峠に近づいたと思う」当事者の「私」は省略されています。この表現には、心理的な切迫感と期待感とが、客観的な風景描写と並置されている。この主語の自在な省略と屈折は、現代国語の文章規範に縛られていない。  柴田 同じ川端でも、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は、シンプルな別空間への移動です。それに比べて、『伊豆の踊子』には、豊かなねじれがあるわけですね。  中村さんの作品にも、リアリズムであり同時に世界の不思議さを伝える文章があちこちにありますね。たとえば、ある出来事を通じて、「ごく普通の灰色の石ころが、この世の無二の存在として、そのとききみには感じられたということだ」(「ABCビスケット」)という一節など、物が日常的でかつ奇跡であることも可能なんだと教えてくれる。  中村 この後、朗読の時間があるのですが、柴田さんは朗読名人で、一方私は朗読が大の苦手なんです。というのも、私は二〇歳ぐらいまで吃音があったんですね。音読中に次の漢字が目に入ると、そこからメタ情報が流入してしまうんです。たとえば「猫が庭を横切った」という文章なら、三毛かな、クロかな、どこから来たのかな、などと瞬間的に意識がずれてしまいます。それを克服するのに、次の漢字の音をパッとローマ字表記に変換する訓練をしました。「猫」の字には「N」を思い浮かべる。表意文字を表音文字に変換することで、意味への連想を防いだのです。  話は飛びますが、柴田さんはサリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』のあとがきに、この作品を訳すときに、特に心を込めて声を聞こうとした、と書いておられましたよね。  柴田 はい、普段から声を聞こうという気持ちで訳しています。作家にも、物語を創作するというよりは、聞こえてくる声を摑まえているんだ、という人がいますが、中村さんはいかがですか。  中村 『変声譚』はまさに、夏目金之助から、ペコちゃん、カマキリ、インド更紗、付箋等々の様々な声を聞きとった短編集です。私は書くという身体的な動きを通して、未知のテキストを読んでいるのだと思っています。私にとって読むことと書くこととは、同じだと思っていますし、それはまた、未知の何かの声を聞こうとしているということなのかもしれません。  柴田 先ほど、「猫」という文字を見たときに、どういう猫なのかと横に関心がずれていってしまうと話されましたが、つまり中村さんは読者としても、常に書いているわけですね。  中村 そうかもしれません。見えない何かの声を聞き、手の動きとともに考え、書き進める。  読む立場としても、身体感覚を刺激する文章に気持ちが動きます。たとえば、谷崎潤一郎の『細雪』は、素晴らしい作品ですが、中でも話の筋には絡まない細部にふっと取り込まれてしまうんです。  末娘の妙子は異性関係が派手で、三人の姉たちに困った妹だと思われていますが、彼女が入浴する場面では、ラジオのある応接間から風呂までの扉という扉を全て開け放って、放送中の交響楽団の音楽を聴いているんです。一般的に言えばお行儀が悪いですが、このシーンは妙子という女性の魅力を見事に描いていますし、まるで風のように流れてくる音楽を身に引き寄せて湯浴みと同時に音浴みをしているように思えます。  柴田 能動的に読む人が、作家なのかなと感じました。僕の読み方は全く受動的です。そこに僕自身が何かを付け加えている気分は薄いです。  中村 そこに倫理的矜持みたいなものを私は感じますが。さらに読み方に関して述べると、身体に響くいい文章を読むときに起こるのは、読みの中断です。先が読めなくなり、意味なく公園まで散歩に行ったり、喫茶店に入ったり、自分の中にこもった熱を放出しなければならない。私にとって読むとは、ノンストップで没頭する行為ではなく、中断して放心と放熱の中で味わう行為です。何度も中断を起こさせる小説こそが傑作だと思っています。ですから、読むとは、読みの中断から成り立つ。この経験は、「ネヴァ川からどこへ」でも書いたことなのですが。  柴田 小説の面白さ、話は尽きませんね。(おわり)