2025/03/21号 5面

坂の中のまち

坂の中のまち 中島 京子著 川口 則弘  初めて東京の街を見た人は何を思うだろう。車がたくさん走っている。ビルがぎっしり並んでいる。どの電車に乗っていいかわからない。いろんな視点があり得るが、本作の語り手、富山出身の坂中真智は、作中でこんなことを洩らしている。「東京じゅうのすべての坂に、少なくとも一編くらいはその坂を舞台にした小説があるんじゃないか」。坂と小説。たしかにそれらもまた、東京の風景には欠かせない。  二〇一九年春のこと。大学に入るために上京した真智は、東京・小日向台の下宿先にやってくる。その辺りにも数々の坂があって、切支丹坂や庚申坂、鶯坂に播磨坂、はたまた胸突坂や団子坂。……真智はべつだん坂マニアではなかったが、下宿先の女あるじ、久世志桜里が自らの住む街や付近の坂に興味があり、その土地の来歴をこんこんと聞かされる。どうやら志桜里は小日向台のことが出てくる本を集めて読んでいるらしい。読者も真智を通して、坂に関する志桜里の解説に触れることになる。  坂を介して文学作品を読み解く話が続くのだが、これがやたらと面白い。夏目漱石『琴のそら音』や田山花袋『蒲団』の記述をもとに、明治時代の切支丹坂は、いまある同名の坂とは別なのではないかと推察したり、遠藤周作『沈黙』を読み込んで、切支丹屋敷から出土した骨の正体を想像したり。他にも、江戸川乱歩『D坂の殺人事件』や横溝正史『横溝正史自伝的随筆集』、安部公房『鞄』や漱石『こころ』などが出てくる。大学に通いはじめた真智の日常に、過去の書物の内容が溶け込み合う。そのさまは、本好きにとってもたまらなく魅力的だ。  新しい土地で始まる大学生活だ。真智は多くの人たちとめぐり合う。アメリカから来た女性の宿泊人。たまたま教室で隣に座った同級生。文芸サークルの集まりに遅刻したせいで声を交わした男子学生。ささいなきっかけで知り合った人たちが、真智の周辺を騒がしくする。ときに謎めいた展開を見せ、ときに夢のような不思議な事柄が起きる。さらには、恋愛模様がからみ合う。  人と人とのふとした出会いは、五十年ほど前にも起きていた。当時、志桜里は女学生だったが、富山出身の澄江と仲良くなる。その後、志桜里は日系アメリカ人と結婚。子供を身ごもるものの、直後に夫と別れて途方に暮れる。郷里に帰った澄江が不妊で悩んでいたことを思い出し、自分が生む子を引き取ってくれないかと頼んだところ、生まれた女児は澄江の実子、珠緒として役所に届けられたのだという。つまり珠緒の娘である真智は、生物学的には志桜里の孫なのだ。  序盤も早々に明かされるこのエピソードをはじめ、作者は物語の背後に社会的な問題をいくつも忍ばせる。一九八四年まで父親が日本人でない子供は日本国籍がとれなかったこと、戦時中に犯した性犯罪を自慢げに語る男の存在、などなど。そういう過去の悪弊が毅然と静かに記されることで、余計に読者の心にくっきり刻まれる。  描かれるのは、ほぼ一年間、わずかといえばわずかな時間だ。しかし、坂に囲まれた街と、歴史・文学を掛け合わせたところに、時間以上の広がりを生む。しかも、小難しい文学理論や、差別への批判、甘ったるい恋情、そのどれにも決して偏らない。心地よいバランスが清らかな読み味を支えている。(かわぐち・のりひろ=文学賞研究家)  ★なかじま・きょうこ=作家。著書に『小さいおうち』(直木賞)『妻が椎茸だったころ』(泉鏡花文学賞)『かたづの!』(柴田錬三郎賞、河合隼雄物語賞、歴史時代作家クラブ賞作品賞)『長いお別れ』(中央公論文芸賞、日本医療小説大賞)『夢見る帝国図書館』(紫式部文学賞)『やさしい猫』(吉川英治文学賞)など。一九六四年生。

書籍

書籍名 坂の中のまち
ISBN13 9784163919157
ISBN10 4163919155