2026/09/25号 7面

科学時評〈9月〉(粥川準二)

科学時評 9月 粥川準二  二〇二六年八月、アメリカの〝空売りファンド〟であるゴッサム・シティ・リサーチ社は、住友化学および住友ファーマを対象とした調査レポート二件を公表した。二件目のレポートは、住友ファーマの共同研究パートナーである京都大学iPS細胞研究所(以下、CiRA)の創設者・山中伸弥教授の研究の信頼性に疑問を投げかけるものであった。具体的には、二〇〇〇年から二〇二〇年にかけて発表された一〇本の論文に画像重複などの研究不正があるという疑惑である。さらに、世界初のiPS細胞由来パーキンソン病治療薬「アムシェプリ」の臨床試験主導者が関与する論文にも同様の疑念があると指摘された。住友ファーマが掲げる再生医療事業の三五〇〇億円という収益目標は根拠が薄弱であり、事業の確実性には重大な懸念が存在する、とゴッサム社は主張した。  〝空売り〟とは株価の下落を見越して利益を得る取引のことである。投資家は手元にない標的企業の株式を証券会社などから借りて売却し、のちに株価が下落した時点で安く買い戻してから返却する。この売値と買値の差額が彼らの利益となる。〝空売りファンド〟とは、この仕組みをビジネスにしている企業のことだ。彼らは標的企業の財務や基礎技術の問題を徹底的に調査し、多額の空売りを仕込んだ段階でネガティブな内容を含むレポートを世間に公表する。レポートに接した投資家が動揺してパニック売りを起こし、株価が急落すると、それを底値で買い戻すのである。  しかしながら今回、ゴッサム社のレポートに対し、アカデミアと企業は具体的な事実の提示によって即座に対応した。「これに住友ファーマより先に激怒したのは、当然ながらCiRAだった」(医薬経済ONLINE「住友ファーマに空売りファンドが攻撃、京大・山中伸弥氏も猛反論した「10日間戦争」の結末」、『DIAMOND online』二〇二六年九月三日)。CiRAおよび山中教授らは八月一〇日に声明を発表し、一〇本の論文を一括して列挙し、継続的な不正があるかのように扱う記述は個々の事実関係を無視したものであると抗議した。彼らの詳細な説明によれば、山中教授が直接責任を負うのは三報にすぎず、うち二報は過去に学術誌上などで調査や修正が完了しており、残る一報も画像重複は存在しないことを山中教授自身が再確認している。  他の論文の事実関係も丁寧に説明された。五報は研究材料の提供者として共著者に名を連ねたのみで、すでに責任著者が内容を確認し、訂正手続きを終えているか、もしくは対応中である。著者ではない二報のうち、一報は二〇一八年に所属研究者のデータ捏造で撤回と懲戒処分が完了し、監督責任対応が済んだ事案であり、もう一報も現在の責任著者が対応中である。  解決済みの事案や著者ではない論文を区別なく並べて、それらをまとめて研究不正とみなすことは到底容認できるものではない、とCiRAは主張した。しかも、研究不正問題の専門メディア『リトラクションウォッチ』によれば、CiRAはこれらの件について、ゴッサム社から事前の問い合わせを受けていないという(Dalmeet Singh Chawla, “Japan institute defends Nobel Prize winner amid allegations of image duplication”, Retraction Watch, August 27, 2026)。  開発パートナーの住友ファーマも八月一二日に反論を公表し、ゴッサム社のレポートは一投資家グループによる一方的な見解であると退けた。パーキンソン病治療薬アムシェプリの承認審査資料の信頼性は自社で確認されており、国の規制当局(医薬品医療機器総合機構など)による科学的・医学的審査と厳格な調査を経て条件および期限付き承認を正式に取得したものである、と同社は主張した。今後は製造販売後の評価試験を着実に実施し、さらなるデータ蓄積を進めて早期の本承認を目指す姿勢を示すとともに、不正確な情報に対しては法的措置を含む厳正な対応を講じる、という考えを明らかにした。  ゴッサム社はレポートで住友ファーマの株価が五〇から一〇〇パーセント下落するリスクがあると主張していた。しかしながら、実際の株価下落は三パーセントほどにとどまり、彼らが意図したような壊滅的暴落にはならなかった。CiRAと住友ファーマが個々の事実関係や承認プロセスの信頼性について数日のうちに詳細な反論を公表したことで、市場が冷静さを取り戻したためであろう。それでも、事前に空売りを仕込んでいた同社は相当の利益を得たと推測される。  病理医で研究公正ウォッチャーの榎木英介はこう注意を促す。研究不正についての情報に接したときには、告発者の立場と動機を確認すること、「著者」の位置付けを確認すること、「解決済み」と「未解決」とを区別すること(「ノーベル賞受賞者への「研究不正」告発をどう読むか 山中伸弥氏をめぐる空売りレポートから」、『note』二〇二六年八月一二日)。  また、この事件で垣間見えたのは、人類学者カウシック・S・ラジャンが提唱した「生-資本(バイオ・キャピタル)」の特徴そのものである(『バイオ・キャピタル』塚原東吾訳、二〇一一年、原著二〇〇六年)。現代のバイオテクノロジーと資本主義は、実証された事実だけでなく、未来の実用化への期待(約束)を担保に投機的資金を呼び込み、研究を駆動する。しかしながら、期待が過剰に膨らむからこそ、今度はその期待をネガティブな言説で売り崩そうとする投機ゲームを呼び込むこともある。そのしわ寄せは、開発遅延という形で新薬を待つ患者に及ぶ。生命を支える科学がマネーゲームの対象へと変質させられるこの歪んだ社会構造を、われわれは冷徹に見極める必要がある。(かゆかわ・じゅんじ=叡啓大学准教授・社会学・生命倫理)