わが点鬼簿
四方田犬彦
第6回 宇波 彰(一九三三~二〇二一)
この何年か、宇波彰さんが遺した文章を編纂し、刊行するという作業に携わっている。宇波さんは5年前、87歳で亡くなられたのだが、最晩年まで多摩湖の湖畔にある自宅で哲学研究会を主宰し、多くの年少者を鼓舞してやまなかった。こないだパリでディディ=ユベルマンのこんな本が出てましたよとお見せしたら、一か月後に会ったときには、ああ、もうあれは註文して読んじゃったよと、軽々と感想を述べられるような人だった。
大学ではフランス哲学を専攻。最初はデカルトで、次にベルグソンで論文を書き学位をえた。定時制高校の英語教員として多忙な日々を過ごしつつ、エドガール・モランからボードリアールまで、フランスの現代思想書を次々と翻訳した。モランとは来日時に何回か逢って、ずいぶん話が弾んだらしい。1970年代の初め、ジル・ドゥルーズを最初に日本語に翻訳し紹介したのも宇波さんだった。
わたしは明治学院大学芸術学科で、彼と同僚になってしまった。どんなときにもエレベーターを使用せず、6階の自分の研究室まで階段を上っていくという人で、片手にはいつも洋書。しかしそれが同じ書物であったためしがなかった。
その宇波さんが執筆したきりで、書物として纏められないままになっている膨大な原稿を、仕分けし、重複を削り、形を整える。加えて全著作と全訳書の解題を記し、ご子息である音楽家の拓さんが年譜を作成する。宇波さんが晩年にもっぱら情熱を注いだのはパースであり、ラカンとベンヤミンの読解であった。だが研究の間にはアルバニアからタジキスタンやトルクメンまで、世界の辺境をくまなく旅行し、「日本会議」といった団体を批判することを忘れなかった。
拓さんからは驚くべき話を聞いた。宇波さんが8歳のとき小学校が「国民学校」と改称され、太平洋戦争が始まった。日本が敗戦を迎えたとき、彼は12歳である。8月15日の翌日、新聞は大きく天皇の詔勅を報道した。このとき彼は4年前の真珠湾攻撃を報道する新聞を引っ張り出し、大人たちの前で二つの報道を並べ、説明してみせたという。なんという利発な少年だろう。
宇波少年がやがて大学でサルトルを知り、さらに先に進んで高度消費社会におけるメディアを批判的に論じることになるわけだが、まさに栴檀は双葉より芳しとはこれを指していう言葉であろう。それをいち早く見抜いたのが晩年の津田左右吉であった。宇波少年は幼くして父の師であったこの学匠の謦咳に接し、ともに散策しながら語り合った。長じて大学時代には北軽井沢の津田山荘に滞在までしている。
文化とは個々の人物の著作ではない。ある時代に誰が誰に出遭い、そこから運動が立ち上がるとことを認識しなければならない。宇波さんが勤務先の高校の紀要に発表した「古代日本人の神話的思考」という論文をただちに評価したのが上田正昭であった。それを編集者久保覚が発見し、丸山静に紹介する。かくするうちに前田耕作、木田元、山口昌男、平井正といった、まだ無名の面々が集まり、それぞれが最初の著書や訳書を刊行することで、70年代にせりか書房を中心とする文化運動が発動されていく。宇波さんはこうして運動の中枢にいて活躍した。君もやるなら僕もやるといった雰囲気だったのだろう。ちなみに大学生だったわたしはこの文化運動に喚起され、宗教学を学ぶことになった。
宇波さんに初めて逢ったのは、70年代の終わり、早稲田大学で開催された、日本で最初のバフチン・シンポジウムの会場である。ドゥルーズ、ガタリの『カフカ論』を翻訳された直後の彼が講演を終えたとき、勇気を出して質問をしたのがわたしであった。その後、明治学院大学で奇しくも同僚となって以来、多くのことを教えられたことは、わが人生の幸運というべきである。宇波さんの未刊論文集の刊行を待って、学恩に報いたいと思う。(よもた・いぬひこ=映画誌・比較文学研究家)
