批評はオークション業者の仕事ではない
ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 394
JD アメリカ映画のように、世界中の不特定多数の人びとを考慮した上で映画を作るのであれば、フランス映画のように作ることはできません。日本映画もフランス映画と似た状況にあり、「ささやかな映画」を作ることができる状況にあるはずです。つまり、何よりも自国の観客に向けて作られるという点において共通している。そうした映画がこれから先も生き延びていくためには、自分たちの映画がいかなる状況に置かれており、何に基づいているのか、何をすべきかなどをよく考えていく必要があります。
今日では、誰もがアメリカ映画を模倣しています。模倣すること自体は悪いことではありません。小津のような偉大な監督もアメリカ映画を模倣していました。そして、アメリカの映画作家たちも、多くの模倣を繰り返してきたのです。しかし、模倣をするだけでは、決して面白い作品は生まれません。そこには生が欠けているからです。重要なのは、一人の映画作家が何を見て何を感じたのかを理解し、それを当の映画作家が自分なりに新たに解釈し直し、生を息吹かせることなのです。そのためには、まさに自分が生きる世界へ目を向ける必要があります。私たちは、過去を生きることはできません。映画とは、常に「現在」の芸術なのです。つまり、映画とは未来へと向けられた過去です。一本のフィルムは、いつかどこかで誰かによって見られるかもしれません(これは映画というメディア全般に言えることです)。しかしその際に、すべての映画が見る人の心を捉えることはありません。映画の出来が悪いだとか、様々な理由が考えられますが、私の考えでは、そこに生に対する反省が欠けているからです。だから若い映画作家への助言があるとすれば、映画そのものについて関心を持つと同時に、自分たちの生きる世界や生き様についても関心を持つべきだということです。本当に悪い作品には、その二つへの関心が欠けています。そこそこの作品は、一方については考えていても、他方が欠けています。真に面白い作品には、その両方があります。
HK 映画に関心を持つといったとき、どの程度まで関心を持つべきなのでしょうか? この問題は、最近の映画批評が決して批判をしないこと、またジョン・カーペンターやコッポラの映画とハリウッドの流行りのスペクタクル映画の違いを考える上でも、関わりがあることなのかもしれません。つまり、映画批評の問題に関しては、批評家が歴史的パースペクティブを失っていることが大きい。二十年くらい前までは、批評家はシネフィル出身が多く、映画に対してシネマテーク的な展望を持っていたと思います。映画祭などで映画を見ても、作品の良い悪いに対して、過去の映画と比較することが頻繁にありました。その頃の批評記事などを読んでいると、フリッツ・ラングやニコラス・レイとかの珍しい作品と突然比較されることもありました。それ故、知らない人から見たら「スノッブ」に見えていたのかもしれません。結果として、そうした批評は衰退していきました。それとは異なり、今日の映画批評に目を向けると、同時代の中においてのみ質の良し悪しを決定しているようです。ミシュランガイドやワインのガイドみたいに、その年はこの映画が他よりも優れていると誉めている程度です。相対的な見方で批評をしているということです。それとは異なり、少し前の批評家は、それぞれ映画の理想像があり、絶対的な見方をもって考察していたように見えます。
JD 私は、幸いなことに、そうしたシステムの外にいます(笑)。そのふたつは、共に良いものではない。あなたが何を言おうとしているのか、よくわかります。なぜなら、私も似た経験をしたことがあるからです。ある時期に、私は週刊紙のために毎週公開されるすべての映画を見なければいけませんでした。その時に見た映画のほとんどは忘れてしまいました。何を書いたかすら覚えていません。要するに、商業映画であって芸術映画ではなかった。そうした作品を評価する際には、「この映画は、あの映画よりもシナリオがよく書けている」だとか「役者のキャスティングが良かった」などと、些細なことしか言えないのです。それは、本来の映画批評とは別物です。役割が違うのです。どちらかというと、オークション業者の仕事です。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)