善良なウイルス
トム・アイルランド著
山口 悟
インフルエンザウイルスや新型コロナウイルスが病気をもたらす存在であることは、今や周知の事実である。その脅威をよく知っている我々からすると、本書の『善良なウイルス』というタイトルは奇妙に感じるだろう。だが、続く「世にも数奇なファージ医療の歴史」が、その意図を明確にしてくれる。「ファージ」という用語は、あまり知られていないかもしれないが、かつて薬学部の学生だった私は、それがウイルスの一種であることを学んでいた。一般的なウイルスが人間をはじめとする動物や植物に感染するのに対し、ファージは細菌に感染して内部で増殖し、最終的には細胞を壊して死に至らせる。なお、正確には「バクテリオファージ」という名称であり、これは「細菌(bacterium)」を「食べる(phagein)」という意味に由来する。つまり「ファージ医療」とは、ファージを用いて細菌による感染症を治療することであり、本書はその歴史について書かれているのだ。
この治療法は「ファージ療法」と呼ばれている。本書のタイトルの意味に合点がいったものの、率直に言って本書を開く前は、このファージ療法について強い違和感を覚えていた。薬学部で学び、その後も大学に身を置いて研究をしてきた私の毎日の中で、ファージ療法という言葉を耳にした記憶がないことが、違和感をもった理由だ。
本書は、このファージ療法がたどってきた歴史を綿密に紐解いていく。物語は第二次世界大戦中のソ連からはじまり、その後、舞台はグルジア(現在はジョージア)へと移っていく。このような古い歴史をもつにもかかわらず、本書が扱う内容は私にとって未知の領域であり、隠された歴史のように感じた。そこには、政治と戦争が研究に及ぼした影響、そして研究者同士の競争と対立がファージ療法の発展にどう作用したかが描かれている。かつて地動説を唱えた者や、予防接種を試みた者が遭遇したように、新しい科学が受け入れられるまでには大きな社会的障壁を越えなければならない。ファージ療法もまた、その例外ではない。微力ながら研究に携わっていた私は、生涯をかけて真理を追求する研究者たちに深い敬意を抱く。
さて、現在のところ我々は、病気を引き起こす細菌に対して、ペニシリンをはじめとする抗生物質や、それらをもとに改良した合成品などの「抗菌薬」で対抗している。しかし、細菌の中には、これらの抗菌薬を無効化する性質を獲得したものが生まれることがある。このような、抗菌薬が効かなくなった「耐性菌」の出現が問題になっており、ペニシリンの誕生以来、人類が開発する抗菌薬と細菌の間のいたちごっこが今も続いているのである。この現状を考えると、ファージ療法が治療の新たな選択肢として浮上してくるのは当然の流れなのかもしれない。
この人類共通の課題に対し、まさかウイルス(ファージ)が、その打開策の鍵を握るとは、誰が想像できただろうか。本書を読み進めるにつれて、抗菌薬の新たな選択肢の必要性を、読者は痛感することになるだろう。事実、世界では着実に臨床試験が進められている。耐性菌の問題は、もちろん私たちにとって無関係ではなく、このファージ療法を実際に用いる日が、そう遠くない将来に訪れる可能性があるのだ。
とは言え、医薬品として扱うには慎重でなければならないことを付け加えておく。これまで使われてきた医薬品と比べると、ファージは複雑な構造と機能をもつ。私たちの体内で何か不都合なことが起こっていないか、その安全性が正しく評価されることが望まれる。
本書は、長いあいだ歴史の陰にあった研究をまとめ、公にしてくれた。耐性菌の出現という予断を許さない課題の対策として、ファージ療法という未知の選択肢を受け入れるのかどうか、その判断の一助となるだろう。(野中香方子訳)(やまぐち・さとる=サイエンスライター)
★トム・アイルランド=サイエンス・ジャーナリスト。「ザ・バイオロジスト」誌(ロイヤル・ソサエティ・オブ・バイオロジーの刊行誌)の編集者。
書籍
| 書籍名 | 善良なウイルス |
| ISBN13 | 9784163920467 |
| ISBN10 | 4163920463 |
