滅びゆく惑星で 第13回
増田俊也
テレビを頂点にして芸能人たちが栄えている光景を、私たちは長いこと見てきた。アイドル歌手がいて、演歌歌手がいて、女優と男優がいる。国際情勢が動くたびに駆り出される大学の論客がいる。みな選び抜かれた者たちで、あの煌びやかさの外側にいる人間からは、手の届かない場所に立っているように見えた。
会社もそうである。誰もが名を知る企業の会長や社長というのは、外から見れば一種のタレントであり、内側にいる社員から見れば、畏れながらどこかで憎んでもいるという奇妙な感情を向けられる神のような存在だった。サラリーマンは廊下で役員とすれ違うたびに背筋が伸びるであろう。その緊張は本物である。だからこそ、客観的に状況を見ればおかしな光景である。
どれもほんの数年か数十年で入れ替わってしまう世界なのだ。二十年前の紅白の出場者を全部言える人はまずいない。十年前に業界誌の表紙を飾った経営者の名を、いま何人が挙げられるだろう。畏怖の対象だったはずの人が、ある日ふっと消えて、誰もそれを話題にしない。消えたことすら気づかれない。
昭和、平成、あるいは二十世紀というのは、もしかしたら開拓時代だったのではないか。近ごろそう思うようになった。開拓時代の過渡期だったのだ、と考えるとずいぶんすんなり納得がいく。荒野に道を通し、柵を立て、井戸を掘る。規則を作る。共有モラルを作る。そういう作業に追われていた百年だったのだと。ならばこれから訪れるのは成熟した世紀なのかというと、たぶんそれは違う。二十世紀が過渡期だったのなら、二十一世紀も過渡期であり、三十世紀もやはり過渡期なのである。人間はいつまでも途中にいる。腰を落ち着ける場所などどこにもない。道路や建物はスクラップアンドビルドされ、法律やモラルでさえ大きく変えられていく。
何年にもわたって続き、途方もない数の犠牲者を出した二つの世界大戦でさえ、時間が経てば過去の小さな出来事のひとつになっていく。教科書の見開き一頁になり、やがて数行になり、いずれ註釈に落ちる。当事者の孫の代までは重いが、その先はもう軽い。私たちが応仁の乱をほとんど何も感じずに口にできるのと同じことだ。あれだって京の都が焼け野原になった戦である。
北極の氷が消え、そのうちアラスカが温帯になり、いずれは熱帯になっていくだろう。私たちはそれを見ることはないが間違いなくそうなる。時間の前では、あらゆることが塵のようなものだ。十年単位ではまだそう思えない。百年、千年、万年、そして数百万年数千万年数億年という単位で眺めてしまえば、いま地球上で起こっていることなど、ほとんど一瞬の出来事ばかりである。
こういうことを書くと虚しくなるかというと、そうでもない。むしろ少し気が楽になる。どうせ塵なのだ。惑星が滅びる前に、こちらのほうが先に消える。(ますだ・としなり=小説家)
