2026/07/03号 7面

滅びゆく惑星で 9(増田俊也)

滅びゆく惑星で 第9回 増田俊也  妙に頭に残っている言葉というのは誰にでもあるだろう。大した会話ではなかったのに、なぜかその一語だけが、何十年も経ってから不意に浮かんでくる。私の場合は、若いころ付き合っていた女性の「歯医者に通うのが好き」という言葉である。  なぜと問うと、彼女は「通うたびに良くなっていくから」と答えた。あたりまえではないか、と当時の私は思った。だから相づちすら打たなかった。歯医者は治療するために行く場所であって、通えば良くなるのは仕組み上そうなっているだけだ。何を当然のことを、と若い私は内心で切り捨てた。  その言葉が、いま作家の仕事をしているとふと頭に浮かぶことがある。つい数年前、その意味がわかった。つまり彼女が言っていたのは、作家の仕事でいえば推敲のことだったのだ。  書きあげた原稿を翌日に読み返すと、必ずどこかに直すべき箇所が見つかる。冗長な一文、響きの悪い接続、もっと適切だったはずの形容詞。それらを一つずつ整えていく。最初の稿よりも次の稿のほうが必ず良くなっている、という保証された手応えがそこにはある。書く作業そのものは、白い画面に何もないところから言葉を引き出してくる苦しい行為だが、推敲は違う。すでにあるものを磨くだけだから、進めば進むほど明らかに前より良い状態に近づいていく。この一方通行の安心感が、書く仕事のなかで唯一、心安らかな時間なのである。  歯の治療もそうである。痛むところを削り、詰め、整えていく。一回ごとに口の中は確実に良い方向へ向かう。よく考えると、膵臓や肝臓、腎臓などは不可逆的に悪くなっていくことが多い。しかし歯科医の治療は「もう治らない」という事態にはならず、代替物(義歯)なども使い、最終的には必ずよくなっていく。後退することがない。彼女は他の病気と較べてその確実性を言っていたのだ。エステでも、髪を切ることでもなく、よりにもよって歯医者というのが彼女らしかった気もする。  あのとき私は、彼女の言葉の表面しか聞いていなかった。意味としては理解した。だが、その下にある感情の襞までは届かなかった。良くなっていくことそのものを愛おしむ気質、毎回少しずつ整えられていくプロセスを楽しむ感性。それを彼女は持っていて、私は持っていなかった。あるいは、まだ持つに至っていなかった。  推敲をしているとき、彼女の面影がときどきちらつく。思いを残しているとか、未練があるとか、そういうことではない。長く別の人生を生きてきて、もう連絡を取る術もない。ただ、自分が言葉を整えながら「良くなっていく」と感じる瞬間に、同じことを別の対象で味わっていた一人の人間がいたのを思い出すだけだ。  人は、相手の言葉の意味を理解するまでに、ときに数十年かかる。(ますだ・としなり=小説家)