2026/03/13号 5面

ガザに地下鉄が走る日

〈書評キャンパス〉岡真理『ガザに地下鉄が走る日』(米倉伸哉)
書評キャンパス 岡真理『ガザに地下鉄が走る日』 米倉 伸哉  ガザ。世界最大の野外監獄。砂漠の辺獄。2023年10月7日のハマース(イスラーム抵抗運動)による越境攻撃に応じて展開された、イスラエル軍の苛烈な侵攻によって、いま、この地は灰燼に帰しつつある。報道がもたらす耳慣れないアラビア語の地名、刻々と更新される死傷者の数。実感をともなわない名詞と数字の羅列が、この惨禍をどこか浮世離れしたものとして映し出す。   実際、ガザに生きる人々は「この世界」の住人ではないと、本書の著者、岡真理はいう。「人権」が「人間」であることによってではなく、「国民」であることで保障される「この世界」にあって、かれらは「人間」ならざる者、「ノーマン」であると。しかしだからこそ、ガザは同時に「この世界」への闘いの足場ともなりうる。本書は、「ナクバ(一九四八年のパレスチナの民族浄化)」から70年におよぶパレスチナの軌跡を追うことで、それでもなお「人間」でありつづけることを選ぶ人びとの闘いを活写する。  「芝刈り」と称される定期的な虐殺によって、老若男女の別なく奪われる命。そして生き延びたものたちにとって、愛するものの記憶を掘り返すことじたいが暴力の再演となる極限的状況を前に、それでも岡は人びとの足跡をたどり、生者の、死者の、行方不明者の、一人ひとりの名を本書に織り込んでいく。  イスラエル兵を前に冗談を交わすふたりの若者、子どもたちのため西岸地区に劇場をつくる親子、悲壮の涙を求めるカメラマンに笑みをもって応える女性――暴力の客体としか看做されない人びとを、燦然たる生の主体として立ちあげる筆致はやがて、まだ見ぬ「ガザの地下鉄」を路線図で表現するガザのアーティストの作品へと帰結する。かれらの闘い、すなわちパレスチナ人として「生きながらの死」を生きつづけることは、自爆テロによって自分自身と「この世界」との関係を断ち切ってしまうこと以上に困難な道のりであるとする岡の言は、こうした一人ひとりの抵抗の実践に支えられている。  〈10・7〉以降、ガザの状況は日ごとに悪化し、現時点で死者は70000人を超す。あまりに強大な現実は、わたしたちの視線を、「いまここ」に釘付けにせずにはおかない。けれど、2018年に上梓された本書は、一枚岩であるかにみえる歴史のうちに無数の物語を差しはさむことによって、今日のわたしたちが目の当たりにする「この世界」とは異なる現実があることを喚起する。  イスラエル軍の戦車に向かって石を投げる少年の姿は、かつて世界中に拡散された。「石の革命」とも呼ばれるその蜂起は、国家が国家に対してなす闘いの謂いではない。岡がいうようにその宛先は、「国民」ならざるものを「人間」とは認めない「この世界」、さらには、そのような世界に安住するわたしたちに向けられている。ならば、過去への洞察によって未来を拓こうとする本書もまた、日本のわたしたちに向けて放たれた、ひとつの「石」に違いない。  ★よねくら・しんや=一橋大学大学院言語社会研究科博士課程1年。たんぽぽを吹くのがうまい。

書籍

書籍名 ガザに地下鉄が走る日
ISBN13 9784622087472
ISBN10 4622087472