2026/09/25号 8面

追悼=岸惠子(水口義朗)

追悼=岸 惠子 自由と独立、未知への挑戦 水口 義朗  岸惠子さん  一九五六年、日仏合作映画『忘れえぬ慕情』に出演して監督のイヴ・シャンピに見初められたあなたは、翌年〝飛ぶ鳥あとをアゼン〟とさせてパリで結婚してしまいます。イヴに世界をもっと広く見たほうがいいと口説かれ、日本を捨て映画を捨て両親を捨てて結婚。そして世界へ飛び立ったのでした。マダム・シャンピになるや、パーティ会場でジャン・コクトーに見初められ言い寄られてパリのアリアンス・フランセーズ劇場で初舞台を踏みます。コクトーの若い日の処女戯曲『濡れ衣の妻』の主演。一九六一年に上演されたこの作品は、コクトーの最後の演出となった。あなたは中学生のとき友人と二人で校則を犯してコクトーの『美女と野獣』を観て女優になったという赤い糸の持主なのです。学生時代にスカウトされ、一九五三年『君の名は』の主役で一躍スターの座をつかむのも大庭秀雄監督に見初められたからです。さらに小津安二郎監督に見初められて『早春』に出演。ついで豊田四郎監督の『雪国』の撮影に入る。クランクアップ次第、パリに去る覚悟。相手役の池部良が「どうしてフランスなんかに行っちゃうの」と言い、小津も岸のために『東京暮色』を用意していた。〝飛ぶ鳥あとをアゼン〟とさせた一幕。  岸さん、あなたの物怖じしない闊達さは、市川崑監督の『おとうと』でも発揮されます。撮影に入ってすぐに監督は撮影中にあなたを隅に呼び「やめようよ」と言う。おとうとの姉さん役はもっと痩せていなければ感じが出ない。「もっと痩せろ」と命じられる。  その後『黒い十人の女』『悪魔の手毬唄』『細雪』と市川崑はあなたを見初めつづけるのです。  見初めるのは実はあなたの方で、たとえば一九七一年、徳島の病院で療養していた小田実をあなたは突如訪問します。小田がべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の代表として活躍していた時です。新聞は「女神が舞い降りた」と書きたてました。お見舞い訪問の理由は小田の小説『現代史』を読んでいたく感動し、映画化したい気持を伝えたくてやってきたということでしたね。これはあなたの方が小田実を見初めてのこと。あなたの積極性です。小田は即元気になり、あなたとアミティエ・アムルーズ(恋に近い友情)のつきあいを始めます。小田は司馬遼太郎に「小田は現代の坂本龍馬や」と看破されて、もてすぎがすぎたころでした。岸さんと仲好しになったとはメデタイと、わたしは赤坂のビストロでふたりのために宴をもうけました。『されどわれらが日々』で芥川賞作家になったドイツ文学者の柴田翔も同席。会食中にあなたが小田に「こないだ夜おそくに渋谷でラーメン食べたの、あれおいしかったわね」と女子学生もどきで話すのが耳朶に残っています。小田とは「日本何でも見てやろう」と歩きまわっていました。宿で寝る前になると「ビフテキ食いにいかへんか」と夜食に誘われるので、「何がラーメンだ」とシット半分でにが笑い。  小田もあなたも昭和七年生まれの戦中銃後世代。あなたは横浜空襲で逃げまどい無惨な屍体を見ていた。大阪空襲では小田実、開高健が、神戸空襲では野坂昭如が九死に一生の戦場体験をしていることが、会食の席でわかった。かれらは創作の原点をその体験によっている。あなたの話でイヴ・シャンピが反ナチの地下運動で十一人の医学生仲間が戦死、二人生き残ったことも出た。そういえば、『君の名は』は昭和二十年五月二十四日の東京空襲の夜、数寄屋橋の上で互いに命を助け合った男女の物語でしたね。あなたがドキュメント作家、ジャーナリストとして世界の戦乱、貧困地に取材に行き、国連人口基金親善大使の仕事を引き受けたのも、戦争で生き残った者の負い目と平和への痛切な責任と衝動にせかされていたからです。あなたに聞けなかった十九歳のときの鶴田浩二との激愛と別れも、鶴田の戦争との関わりで考えられます。あなたが〝悪の華〟という鶴田から「君がもう少し大人になれば分かるはずだ」と言われ、あなたのほうからサヨナラをした気強さ。これは九十三歳までのあなたの自由と独立への憧憬、未知への挑戦がしからしめた結果ですよ。  見初められるあなたは、それにこたえて見初める人でした。認め合うのが見初めです。(みずぐち・よしろう=文芸評論家)  岸 惠子氏(きし・けいこ=俳優・ジャーナリスト・文筆家)八月七日死去。九三歳。  一九三二年、横浜市生まれ。一九五一年俳優デビュー。小説『わりなき恋』はベストセラーに。